このブログを検索

2022年8月31日水曜日

安克昌追悼(中井久夫)

 


安克昌先生は、二〇〇〇年十二月二日、四〇歳に四日を残してその短き生涯を閉じられた。その恨みを恨みとして、その思いを思いとする人々が今ここに集まっておられる。不肖、私、葬儀委員長として、皆様とともに愛惜、追慕の念を、まず、ご遺族にささげたいと申し上げます。(中井久夫「安克昌先生を悼む」2000年『時のしずく』所収)


惜しまれつつ四〇歳に満たない短い生を終えた安克昌は、早くから精神科医を志して神戸大学医学部に入学した。在学中すでに、彼が作成した精神医学講義ノートは、私の講義の単なる書き写しではもちろんなく、自分の勉強によって緻密に再構成されたもので「安ノート」としてクラスメートの間で名高いものであったという。

彼の蔵書もまた、その量と質と、 ジョイス、ベケット、カフカ、ウィトゲンシュタインを始めとする文学、哲学、社会思想にわたる幅の広さで有名であった。もっとも、 精神科医になって一〇年前後のある時、その多くを売却してしまい、さばしばしたと語っている。


在学中、ソウルで一夏を語学研修に過ごしたことはあまり語りたがらなかったが、おそらく在日として生きると肚をくくってこの列島に戻ってきたのではあるまいか。 神戸大学の精神科に入って自己紹介の時、彼は「安という朝鮮人です」とぼそりと語った。〔・・・〕私は彼とよく診察後の医局で談笑した。ほんとうにあらゆるテーマについて語った。彼はジャズ・ピアニストとしても知られていた。彼の演奏には沁みいるような「明るい孤独」があったと私は思う。〔・・・〕


この震災直後の彼の活動の中で、初めて臨床に即した彼の多重人格論を聴いた。後には彼の補助治療者をつとめたこともある。ある時、患者の受けた虐待をめぐって話している時、「やはり男性治療者には限界がありますね。私は在日だから、どこか許してもらっているところが少しはあるんです」と漏らしたことがある。在日韓国人としてのトラウマの深さをのぞかせた唯一の機会であった。しかも、彼はそれを治療的に有利な条件に変えようとしていた。(中井久夫「安克昌『多重人格者の心の内側の世界』序文」2003年『時のしずく』所収)


精神科医の真の栄光は、もとより印刷物や肩書きにあるのではない。その栄光の真の墓碑銘は患者とともに過ごした時間の中にある。それは過ぎゆくものかもしれないが、それは石よりも確実であり、石よりも永続するかもしれず、きみの墓碑銘はまちがいなく、かけがえのない素晴らしい質のものである。〔・・・〕


きみと旅行したウィーン、ブタペストをなつかしむ。あれは一九九二年の初夏だった。あの旅にはふしぎな魅力があった。そして夫人へのきみのこまやかないつくしみと心くばりがよくわかった。


ふだん、きみの貴重な家族との時間の多くを奪ったのは私だった。きみは医局長として、私の人事の哲学を知っていたから、一人一人にできるだけチャンスを与え、希望をかなえようとして命をけずる思いをした。それは私の考えに共鳴してくれるところがあったからにちがいない。しかし、きみの肩を異常に凝らせたのは私の咎である。そして、きみの著書の序文を「若さと果断沈着さとに一抹の羨望を感じる」と終えた私が、その後五年ならずして、老いの身できみを送る言葉を書くということになろうとは、孔子さまではないが、天われをほろぼせりといわずして何といおうか。〔・・・〕


病院にかけつけてお母様と相擁した。涙を払ったお母様は、開口一番「素敵でしたよ」と仰った。「あんな素敵な死は見たことがありません」と。


二日間の意識混濁ののち、きみは全身体をつっぱらせて全身の力をあつめた。血圧は一七〇に達したという。そして、何かを語ってから「行くで、行くで、行くで、行くで」と数十回繰り返して、毅然として、再び還らぬブラックホールの中に歩み行った。〔・・・〕

その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。


きみは秋の最後の名残とともに去った。生まれかわりのように生まれた子に秋の美しさを讃える秋実の名を残して。

(中井久夫「安克昌先生を悼む」2000年『時のしずく』所収)




…………………


※付記



《精神科医の真の栄光は、もとより印刷物や肩書きにあるのではない。その栄光の真の墓碑銘は患者とともに過ごした時間の中にある》とあった。


中井久夫が精神科医をどうのように考えていたかを以下にいくつか抜き出しておく。


◼️精神科医は、王や売春婦とともに"人類最古の職業"

古代都市の成立は、技術史家ルイス・マンフォードによれば、すでに人力による巨大機械の成立であり、今日まで連続する事態であるという。逆に見みれば、古代都市の成立あるいは一般に civilisation とは、人類文化の人間個体への一身具現性の急激な低下である。医師はより古い層より出て、この一身具現性を少なくとも最近まで残していた。特に精神科医は、その意味でも王や売春婦とともに"人類最古の職業"といいうるであろう。医療が"技術"といら言葉に尽しえないものを持ち、このことばに感覚的にもなじみえないのはそのためであろう。売春婦の”技術" がきわめて一身具現的であるのにやや劣るとしても(筆者は戯れに言うのではない。下位文化としての"治療文化" 全体を問題にしているのだ、古代中東の神殿売春を特筆するわけではないが)。中井久夫「西洋精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)


ーーここでの王は、《雨司、呪術師はしばしば王を兼ねていた》(「『分裂病と人類』について」2000年初出『時のしずく』所収)


◼️精神科医像は、売春婦と重なる

私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。


そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。


患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。


精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。


実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。

職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただの promiscuous なひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。)


しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。


以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(中井久夫『治療文化論』1990年)


◼️マッサージ師、鍼灸師、ヨーガ師、その他の身体を介しての精神衛生的治療文化(カウンセリング文化)

人間の精神衛生維持行動は、意外に平凡かつ単純であって、男女によって順位こそ異なるが、雑談、買物、酒、タバコが四大ストレス解消法である。しかし、それでよい。何でも話せる友人が一人いるかいないかが、実際上、精神病発病時においてその人の予後を決定するといってよいくらいだと、私はかねがね思っている。


通常の友人家族による精神衛生の維持に失敗したと感じた個人は、隣人にたよる。小コミュニティ治療文化の開幕である。(米国には)さまざなな公的私的クラブがある。その機能はわが国の学生小集団やヨットクラブを例として述べたとおりである。

もうすこし専門化された精神衛生維持資源もある。マッサージ師、鍼灸師、ヨーガ師、その他の身体を介しての精神衛生的治療文化は無視できない広がりをもっている。古代ギリシャの昔のように、今日でも「体操教師」(ジョギング、テニス、マッサージ)、料理人(「自然食など」)、「断食」「占い師」が精神科的治療文化の相当部分をになっている。ことの善悪当否をしばらくおけば、占い師、ホステス、プロスティテュートも、カウンセリング・アクティヴィティなどを通じて、精神科的治療文化につながっている。カウンセリング行動はどうやら人類のほとんど本能といいたくなるほど基本的な活動に属しているらしい。彼らはカウンセラーとしての責任性を持たない(期待されない)代り、相手のパースナル・ディグニティを損なわない利点があり、アクセス性も一般に高い。(中井久夫『治療文化論』1990年)


◼️ ギリシャの哲学者はカウンセラーとして生計を立てている

近代医療のなりたちですが、これは一般の科学の歴史、特に通俗史にあるような、直線的に徐々に発展してきたというような、なまやさしい道程ではありません。


ヨーロッパの医療の歴史は約二千五百年前のギリシャから始めるのが慣例です。この頃のギリシャは、国の底辺に奴隷がいて、その上に普通の職人と外国人がいて、一番上に市民がいました。当時のギリシャでは神殿にお参りしてくる人のために神殿付きドクターと、一方では奴隷に道具一式をかつがせて御用聞きに回るドクターとがありました。

ドクターの治療を受けられたのは中間層であって、奴隷は人間として扱われていなかったのでしばしば病気になってもほっておかれました。市民は働かないで、市の真中の広場に集まって一日中話し合っているんです。これが民主主義の始まりみたいな奇麗ごとにされていますが、働かない人というのはものすごく退屈していますから、面白い話をしてくれる人が歓迎されます。そこでは妄想は皆が面白がって、病気とはみなされなかったようです。いちばん上の階級である市民が悩むと「哲学者」をやとってきて話をさせます。つまり当時の哲学者はカウンセラーとして生計を立てているのです。この辺はローマでも同じです。ローマ帝国は他国を侵略して、だんだん大きくなってきます。他国人を捕えて奴隷として働かせ、消耗品として悲惨な扱いをしていました。暴力の発散の対象に奴隷がなって、慰みに殺されたりしています。(中井久夫「近代精神医療のなりたち」1994年『精神科医がものを書くとき』所収)