現実界の享楽は固着だというのは、ラカン派内でもまだわずかしか認知されてないんだよ、例えばニューラカニアンスクール(新ラカン学派)ってのはジャック=アラン・ミレールが2003年に設立した学派だけれど、この今の会議でさえ次のようなこと言ってるおばちゃんがいるわけで。
固着とは何?〔・・・〕 フロイトのテキスト、特に1915年の「抑圧」と「無意識」に関するメタ心理学論文を読み直してみると、実は固着概念が彼の無意識の概念のまさに核心、というか原因にあることに驚かされた。 What of fixation? [...] It struck me however upon re-reading Freud’s texts, particularly the metapsychology papers on Repression and The Unconscious from 1915, that in fact fixation is at the very core or rather cause, of his concept of the unconscious. (ジョアンヌ・コンウェイ Joanne Conway, What of fixation? 2022 /06/09) |
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精神分析家ってのは理論なんか知らなくたって患者の症状を治したらいいわけで、別にわかってなくたっていいのさ。とはいえフロイトなんかぜんぜん読んでないから、いまさらビックリしてるわけだ、ラカンの現実界がフロイトの固着だということに。
仏ラカン派のボスまわりも似たようなもんで、たいして読んでないね。その点、パリとウィーンのはざまのベルギーのゲント大学の連中は、フロイトとラカンをどっちも読んでるヤツが多いよ。
私がしばしば引用するポール・バーハウはそのなかでも華だな。
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、表象への・言語への移行がなされないことである。[The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation . "Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language](ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年) |
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日本はどうかっていうと、フロイトラカン業界は木瓜の花がほとんどだからな、あと20年はかかるんじゃないかね。日本ラカン協会理事長立木とかフロイト研究第一人者?十川とかはぜんぜんダメだな。
ま、松本卓也くんあたりはいくらか見込みがあるけれどさ。彼が『人はみな妄想する』で示したミレールの「ひとつきりのシニフィアン」はフロイトの固着のことだよ。
最近でも古谷利裕氏が松本卓也くんの『享楽社会論』から引用しているのを見ると、この概念を示している。 |
……このシニフィアンは、ラカン派ではしばらくのあいだ「ひとつきりのシニフィアン(…)」と呼ばれてきたが、近年では「〈一者〉のシニフィアン(…)」あるいはたんに「S1」と呼ばれるようになっている。(松本卓也『享楽社会論』2018年) |
この《ひとつきりのシニフィアン [Le signifiant tout seul]》は、ジャック=アラン・ミレールが1990年代に示したものだが、上にあるように《一者のシニフィアン[le signifiant Un]》ーーラカンは《一者がある[y'a d'l'Un]》とも言ったが、S1 と等価(ミレールは2011年には《S2なきS1[S1 sans S2]》とも言っている)であり、これが固着のこと。➡︎「一者のシニフィアンは固着である」。 松本くんがフロイトの固着という用語を使っているか否かはいざ知らずーー私は日本のラカン研究書はネットに落ちているのを掠め読むだけーー、基本的には彼は固着を把握しつつある筈。 今見たらこのブログで2018年の段階に、『人はみな妄想する』の記述に依拠しつつ、《松本卓也氏による、ミレール起源の「Le signifiant tout seul ひとつきりのシニフィアン」も、結局、フロイトの固着にかかわる》としているね、忘れていたけど。「松本卓也、固着」で検索したらそれしか行き当たらないや。 松本卓也くんの記述には間違いもあるがね、上の古谷氏の引用してるなかでもミレール誤読をしてるな・・・なんであんなmisleading してんだろ? 《彼(ミレール)は、ラカンの「人はみな狂人である」(…)という一文を、「人はみなトラウマ化されている」(…)と読み替え、私たち人間はみな〈一者〉のトラウマを反復している、とみる立場をとるようになっている》(松本卓也『享楽社会論』2018年) ミレールはまったく読み替えておらずーー《「人はみな狂っている」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある[au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé ]》(J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )と言っているーーしかもトラウマは現実界の審級、妄想は象徴界の審級であることを示している(現実界は身体の出来事、象徴界は言語)。これは何もミレールの見解ではなくラカン自身が示していること。要するに妄想とはトラウマ的身体の刻印に対する言語による防衛。そして防衛できない残滓が固着。 ・・・というたぐいの誤謬はあるがたんなる「若気の至り」だろうよ、ま、この程度のことは許容しとかないと、日本フロイトラカン業界全滅になっちまうからな、私の見る範囲では松本卓也くんが唯一の希望の星だね |