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2022年9月11日日曜日

インポテンツと冷感症

 

われら糞と尿のさなかより生まれ出づ inter faeces et urinam nascimur (聖アウグスティヌス「告白」 Augustinus, Confessiones)



以下、基本的にはフロイトの時代ーーいまだヴィクトリア朝の抑圧的モラルの残滓が強烈に蔓延っていた時代ーーの話であり、現在はその強制力がかなり緩くなっているだろうという前提で読まれたし。


性欲動[Sexualtrieb]はもともと非常に多くの構成要素に分かれており、むしろそこから発展していくものである。これらはとりわけ嗜糞性の欲動的構成要素[koprophilen Triebanteile]であり、直立歩行を採用した結果、嗅覚器官が地面から離れて以来、おそらく我々の美的文化水準と相容れないことが判明している。エロス的生の一部であるサディスティックな欲動の大部分についても、同じことが言える。


しかし、このような発達の過程はすべて複雑な構造の上層部にしか影響を与えない。エロティックな興奮[Liebeserregung]を生み出す基本的なプロセスは変化しないままである。排泄物は、性的なものとあまりにも密接不可分に結びついており、生殖器の位置 ーー尿と糞のあいだ[inter unrinas et faeces]ーーが決定的かつ不変の要因であり続けている。偉大なナポレオンの有名な言葉を借りるなら、「解剖学は運命である」die Anatomie ist das Schicksalと言えるかもしれない。


生殖器そのものは、人体の美の方向への発達に関与していない[Die Genitalien selbst haben die Entwicklung der menschlichen Körperformen zur Schönheit nicht mitgemacht]。それは動物のままであり、したがって愛もまた、本質的にはこれまでと同じように動物のままである。愛の欲動「Liebestriebeを教育するのは難しい。文明がそれを利用しようとすることは、明らかな快の喪失[Einbuße an Lust]と引き換えにしか達成できないようだ。利用することができなかった衝動[Regungen]の持続は、非満足[Unbefriedigung]という形で性行為に検出されることがある。(フロイト『性愛生活がだれからも貶められることについて』第1章、1912年)



心的インポテンツ[psychische Impotenz]は考えられている以上にはるかに広く存在し、この作用が実際に文明化された人間の愛の生をある程度特徴づけている。


心的インポテンツの概念を拡大し性交の失敗に限定しないなら、すべての男性をここに加えうるかもしれない。つまり、行為には失敗しないが、行為から特定の快感を得ずに行う男性、この状態は人が考えるより一般的である。…この類推として膨大な数の冷感症の女性[frigiden Frauen]も加えうる。(フロイト『性愛生活がだれからも貶められることについて』第2章、1912年)



インポテンツと冷感症は抑圧的モラルとは関係がないという立場もないではない。



すべての幼児期理論の共通の特徴は、民俗学的にも証明されているが(特に神話や妖精物語)、女性の性的器官の否認である。そこには経験された出産外傷の抑圧が明瞭に基礎にある。

Der gemeinsame Zug aller infantilen Geburtstheorien, die auch ethnologisch {Mythen und besonders Märchen) reichlich zu belegen sind ist die Verleugnung des weiblichen Sexualorgans und dies verrät deutlich, daß sie auf der Verdrängung des dort erlebten Geburtstraumas beruhen.


出生の器官としての女性器の機能への不快な固着は、究極的には成人の性的生のすべての神経症的障害の底に横たわっている。女性の冷感症から男性の心的インポテンツまでである。

Die unlustvolle Fixierung an diese Funktion des weiblichen Genitales als Gebärorgan, liegt letzten Endes noch allen neurotischen Störungen des erwachsenen Sexuallebens zugrunde, der psychischen Impotenz wie der weiblichen Frigidität in allen ihren Formen, (オットー・ランク『出産外傷』Otto Rank "Das Trauma der Geburt" 1924年)

性交が中断されたとき引き起こされる性的機能の障害との遭遇は、母の性器の不安(危険なヴァギナデンタータ)に相当する。Störungen der Sexual funktion hinüberleitet, indem der sie auslösende Koitus interruptus der Angst vor dem mütterlichen Genitale entspricht (gefährliche vagina dentata). (オットー・ランク『出産外傷』1924年)



ラカンの「不安セミネール」で展開されたこと、それはまた、フロイトの『制止、症状、不安』においてまとめられた不安理論、『出産外傷』におけるオットー・ランクの貢献としての不安理論を支持している[que c'est développé dans le Séminaire de l'Angoisse,… prend aussi en charge, …la théorie freudienne de l'angoisse qui intègre dans Inhibition, symptôme, angoisse l'apport d'Otto Rank sur le traumatisme de la naissance. ](J.-A. MILLER,  - Orientation lacanienne-  12/05/2004、摘要)



ま、何はともあれ、文明化され過ぎた不幸な方々は、何よりもまず「においを嗅ぐ悦」に身をまかせる習慣ヲモツコトデス。






においを嗅ぐ悦[Riechlust]のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている[alte Sehnsucht nach dem Unteren fort, nach der unmittelbaren Vereinigung mit umgebender Natur, mit Erde und Schlamm]。対象化することなしに魅せられるにおいを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動[Drang]について、証しするものである。だからこそにおいを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり――両者は実際の行為のうちでは一つになる――、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人であることにとどまっているが、嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう[Im Sehen bleibt man, wer man ist, im Riechen geht man auf. ]。だから文明にとって嗅覚は恥辱[Geruch als Schmach]であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。文明人にはそういう悦[Lust]に身をまかせることは許されない。(アドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』第5章、1947年)



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もっともジャコメッティのようにとってもこわいオッカサマがいたゆえに、愛の欲動にはいくらかの歪みがあったにしろ、逆に偉大な作品群を生み出したという面があるかもしれません。



娼婦とは最もまっとうな女たちだ。彼女たちはすぐに勘定を差し出す。他の女たちはしがみつき、けっして君を手放そうとしない。人がインポテンツの問題を抱えて生きているとき、娼婦は理想的である。君は支払ったらいいだけだ。巧くいかないか否かは重要でない。彼女は気にしない。(James Lord、Giacometti portraitより)





男児は、性行為の醜い規範から両親を例外として要求する疑いを抱き続けることができなくなったとき、彼は皮肉な正しさで、母親と売春婦の違いはそれほど大きくなく、基本的には母親がそうなのだと自分に言い聞かせるようになる。……娼婦愛…娼婦のような女を愛する条件はマザーコンプレクスに由来するのである。

Er vergißt es der Mutter nicht und betrachtet es im Lichte einer Untreue, daß sie die Gunst des sexuellen Verkehres nicht ihm, sondern dem Vater geschenkt hat. (…) 

Dirnenliebe…die Bedingung (Liebesbedingung) der Dirnenhaftigkeit der Geliebten sich direkt aus dem Mutterkomplex ableitet. (フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について』1910年、摘要)




ジャコメッティは既に初期に偉大な母なるヴァギナデンタータ作品を作っています。





ニーチェなどはとってもこわいオッカサマをもったせいで(?)、女蜘蛛の永遠回帰に悩まされました・・・


蜘蛛よ、なぜおまえはわたしを糸でからむのか。血が欲しいのか。ああ!ああ![Spinne, was spinnst du um mich? Willst du Blut? Ach! Ach!   ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第4節、1885年)

月光をあびてのろのろと匍っているこの蜘蛛[diese langsame Spinne, die im Mondscheine kriecht]、またこの月光そのもの、また門のほとりで永遠の事物についてささやきかわしているわたしとおまえーーこれらはみなすでに存在したことがあるのではないか。

そしてそれらはみな回帰するのではないか、われわれの前方にあるもう一つの道、この長いそら恐ろしい道をいつかまた歩くのではないかーーわれわれは永遠回帰[ewig wiederkommen]する定めを負うているのではないか。 (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「 幻影と謎 Vom Gesicht und Räthsel」 第2節、1884年)


アブラハム(1922)によれば、夢のなかの蜘蛛は、母のシンボルである。だが恐ろしいファリックマザーのシンボルである。したがって蜘蛛の不安は母子相姦の怖れと女性器の恐怖を表現する。

Nach Abraham 1922 ist die Spinne im Traum ein Symbol der Mutter, aber der phallischen Mutter, vor der man sich fürchtet, so daß die Angst vor der Spinne den Schrecken vor dem Mutterinzest und das Grauen vor dem weiblichen Genitale ausdrückt.(フロイト『新精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933年)


わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつっている。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだーーつまり、わたしの最高の瞬間を狙って[in meinen höchsten Augenblicken]くるのだ…。そのときには、毒虫[giftiges Gewürm]に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした予定不調和[disharmonia praestabilita]を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ [Aber ich bekenne, dass der tiefste Einwand gegen die »ewige Wiederkunft«, mein eigentlich abgründlicher Gedanke, immer Mutter und Schwester sind―]。 (ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのか」第8節--妹エリザベートによる差し替え前版、1888年)