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2022年9月21日水曜日

自由主義と民主主義の結婚によるヤリたい放題

 

ひと月前、「民主主義と自由主義のどっちが好きなんだい?」で、マルクスとカール・シュミット、それに柄谷行人に準拠しつつ、次の図を示した。




この図は、自由主義と民主主義とは本来別物だということだ、少なくとも上層特徴においては。しかし地層特徴においては、自由主義と民主主義の結婚がありうる、異質な者の排除と他者搾取化の結婚が。

これをボロメオの環においてみよう。



現在の自由主義と民主主義とはこういうことだろうな。

民主主義とはその定義上、大衆の支配だ。「デモクラシー」(dēmokratía)はデモ[dêmos](大衆)と支配[kratos]を組み合わせた語なのだから。


フロイトの『ある幻想の未来』(旧訳邦題)ーー、岩波の新訳邦題では、『ある錯覚の未来』となっているが、原題を直訳すれば『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』であり、私は旧訳のほうを好む。事実、フロイトは幻想とイリュージョンをほぼ等置している、《幻想生活と満たされぬ願望で支えられているイリュージョン「Diese Vorherrschaft des Phantasielebens und der vom unerfüllten Wunsch getragenen Illusion]》(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章、1921年)ーーこの『ある幻想の未来』には、大衆と欲動の自由について次のようにある。


◼️大衆主義

大衆は怠惰で愚かである。大衆は欲動断念を好まず、いくら道理を説いてもその必要性など納得するものではなく、かえって、たがいに嗾しかけあっては、したい放題のことをする。 die Massen sind träge und einsichtslos, sie lieben den Triebverzicht nicht, sind durch Argumente nicht von dessen Unvermeidlichkeit zu überzeugen, und ihre Individuen bestärken einander im Gewährenlassen ihrer Zügellosigkeit.(フロイト『ある幻想の未来』第1章、1927年)


◼️(欲動の)自由主義

用語の混乱を避けるため、私は、欲動が満足させられえない事態を「拒否」Versagung、この拒否が制度化されたものを「禁令」Verbot、そして、この禁令から生まれる状態を「不自由」Entbehrungと呼ぼうと思う。

Einer gleichförmigen Ausdrucksweise zuliebe wollen wir die Tatsache, daß ein Trieb nicht befriedigt werden kann, Versagung, die Einrichtung, die diese Versagung festlegt, Verbot, und den Zustand, den das Verbot herbeiführt, Entbehrung nennen.〔・・・〕

われわれは、大多数の人々が外的な強制を加えられてはじめて――つまり、外的な強制が実効を持ち、ほんとうに外的な強制が加えられる心配がある場合にだけーー文化の側からのこの種の禁令に服従していることを知って、意外の感に打たれ、また憂慮に満たされるのだ。このことは、すべての人間が同じように守らねばならぬとされている文化の側からのいわゆる道徳的要求にもあてはまる。 人間が道徳的に信用ならない存在だとされる場合の大部分はこの事例に属する。〔・・・〕

罰せられはしないということが分かれば、自分の物欲、攻撃衝動、性欲などを満足させてはばからず、嘘や詐欺や中傷で他人を傷つけることを平気でする文化人種はそれこそ数えきれない[Unendlich viele Kulturmenschen(…) , versagen sich nicht die Befriedigung ihrer Habgier, ihrer Aggressionslust, ihrer sexuellen Gelüste, unterlassen es nicht, den anderen durch Lüge, Betrug, Verleumdung zu schädigen, wenn sie dabei straflos bleiben können]。おそらくこれは、人類が文化を持つようになっていらいずっと長くつづいてきた状態なのだ。(フロイト『ある幻想の未来』第2章、1927年)



要するにフロイト観点でも、自由主義と民主主義の結婚とはやりたい放題するということだ。「ルールに基づく国際秩序」の実態自体がこれだ。この結婚が2022年を契機に終わるんだよ。メデタシ、メデタシ。もっとも最後のやりたい放題の世界核戦争が起こらねば、だが。

どっちに転ぼうが、若い人たちには不幸だがね。


近代の資本主義至上主義、あるいはリベラリズム、あるいは科学技術主義、これが限界期に入っていると思うんです。五年先か十年先か知りませんよ。僕はもういないんじゃないかと思いますけど。あらゆる意味の世界的な大恐慌が起こるんじゃないか。

その頃に壮年になった人間たちは大変だと思う。同時にそのとき、文学がよみがえるかもしれません。僕なんかの年だと、ずるいこと言うようだけど、逃げ切ったんですよ。だけど、子供や孫を見ていると不憫になることがある。後々、今の年寄りを恨むだろうな。(古井由吉「すばる」2015年9月号)



「壮年」とあるが、40代から50前後が最も不幸だろうな、30代以下はまだ立ち直りの余力がある筈だから、上の世代は放っておいてキミらははやく目覚めることだよ。

…………

最後に、自由主義と民主主義の結婚の代表国アメリカについて、中国の新聞の最近の観点を掲げておこう。


◼️解放軍報「アメリカの二重基準「ルール」は世界が乱れる源」(中国語原題:"美式"规则"成世界乱源|一,言行相悖虚成性") 鈞声署名論評 2022年7月4日

骨の髄まで染み渡った「アメリカ的二重基準」の症状がまた発作を始めた。ブリンケンの最近の演説は、中国が世界秩序の「もっとも深刻な長期的挑戦」であると公言した。しかし、まともな眼力のある人であるならば、国内法を国際法に優先させ、国際ルールに関しては自分の都合に合えば使い、合わなければ捨てるアメリカこそが国際秩序を乱す最大の原因であることを見て取ることだろう。


アメリカの政治屋にとって、「国際ルール」というモノサシは他人を計るもので自分を規制するものではない。「ルールに基づく国際秩序」なるものも、アメリカ以下の少数の国々が勝手に決めたものに過ぎず、守ろうとするのはアメリカ主導の「秩序」であって、私利をむさぼることこそが真の目的である。長期にわたるアメリカのこのような行動は、世界の政治経済秩序を深刻に破壊し、グローバルな安全と安定を脅かすに至っている。〔・・・〕

アメリカがかくも厚顔無恥で、平然と二重基準に訴えるのは、本を正せば、「アメリカだけは特別・例外」という覇権思想が脳みそに巣くっているためだ。その本質は自己優越論であり、アメリカは他の国々とは違い、「偉大であることが運命づけられ」、「世界を導かなければならない」ということにある。しかし、歴史が証明しているとおり、このイデオロギーは虚妄であるだけに留まらず、極めて有害でさえある。アメリカの著名な経済学者ジェフリー・ザックスは著書『新しい外交政策:アメリカの例外主義を超えて』の中で次のように指摘している。すなわち、各国の利益は密接に関わり合い、運命を共にしており、歴史上のいかなる時にも増して国際協力を強め、人類社会が直面するリスクと挑戦に共同で対処するべき時に、アメリカ政府は独り我が道を行き、勝手に国際ルールを破壊している。これは「アメリカ例外主義」の表れであり、自らを深刻に害し、世界にとっては非常に危険なことである。

事実が証明しているとおり、二重基準を奉じ、「アメリカは特別・例外」を行うアメリカは「ならず者国家」になるだけである。真のスタンダードに対しては、世人の胸の内には一定のはかりがある。アメリカには以下のことを勧告する。「二重基準」をやめ、国際的に公認されたルール及びスタンダードを遵守する正しい軌道に戻ることだ。さもなければ、国家のイメージを台無しにし、国際的信用が完全に失われるだけである。



なお、2021年12月の「ネオナチ等や人種差別に反対する国連決議」に対して米国とウクライナのみが反対している[参照]。ならず者国連にならぬことを祈るばかりである。