現代の民主主義とは、自由主義と民主主義の結合、つまり自由ー民主主義である。それは相克する自由と平等の結合である。自由を指向すれば不平等になり、平等を指向すれば自由が損なわれる。(柄谷行人『哲学の起源』2012年) |
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ーーこの柄谷は既に1990年にある、実に鮮明に。安易に自由主義あるいは民主主義を賛美する者たちをバカにするツールとしては格別だね。
人々は自由・民主主義が勝利したといっている。しかし、自由主義や民主主義を、資本主義から切り離して思想的原理として扱うことはできない。いうまでもないが、「自由」と「自由主義」は違う。後者は、資本主義の市場原理と不可分離である。さらにいえば、自由主義と民主主義もまた別のものである。ナチスの理論家となったカール・シュミットは、それ以前から、民主主義と自由主義は対立する概念だといっている (『現代議会主義の精神史的地位』)。民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。 それに対して、自由主義は同質的でない個々人に立脚する。それは個人主義であり、その個人が外国人であろうとかまわない。表現の自由と権力の分散がここでは何よりも大切である。議会制は実は自由主義に根ざしている。 |
歴史的にいって、アテネの民主主義(デモクラシー)は貴族支配(アリストクラシー)に対立するものである。それは異質な且つ外国とつながる貴族の支配の否定である。また、それが奴隷を除外していることはいうまでもない。このデモクラシーが独裁者(僭主)を生み出すことがあるとしても、それは貴族支配とは別である。デモクラシーのみがそのような独裁者を可能にするのだから。ある意味で、プラトンのいう哲学者=王とは、そのような独裁者である。〔・・・〕 |
自由主義と民主主義の対立とは、結局個人と国家あるいは共同体との対立にほかならない。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収) |
今いくらか割愛して引用したがもう少し長くは、「自由主義と民主主義の相違」を見よ。
まず第一に《自由主義と民主主義の対立とは、結局個人と国家あるいは共同体との対立にほかならない》、この定義は極めて重要だ。
そして民主主義は異質なものの排除、ファシズムーーその原義の「束になること」ーーとの相関関係があり、自由主義は市場原理主義(経済的自由)と結びつく。これは岩井克人も同じことを言っている、ーー《自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。》(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』2000年)
二人とも当然マルクスの言葉が念頭にある筈である、結局、経済的自由とは功利主義、あるいは他者搾取主義に他ならない。
◼️資本制生産様式におけるベンサム主義ーー他人を害することによって自分を利する(人間による人間の搾取) ーーの必然性 |
(資本制生産様式において)労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の領域は、実際、天賦人権の真の楽園であった。 ここで支配しているのは、自由、平等、所有、およびベンサムだけである[Was allein hier herrscht, ist Freiheit, Gleichheit, Eigentum und Bentham.] 自由! なぜなら、商品──例えば労働力──の買い手と売り手は、彼らの自由意志によってのみ規定されているのだから。彼らは、自由で法的に同じ身分の人格として契約する。契約は、彼らの意志に共通な法的表現を与えるそれの最終成果である。 平等! なぜなら彼らは商品所有者としてのみ相互に関係し、 等価物を等価物と交換するのだから。 所有! なぜなら誰もみな、 自分のものだけを自由に処分するのだから。 |
ベンサム! なぜなら双方のいずれにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。彼らを結びつけて一つの関係のなかに置く唯一の力は、彼らの自己利益、彼らの特別利得、彼らの私益という力だけである。 Bentham! Denn jedem von den beiden ist es nur um sich zu tun. Die einzige Macht, die sie zusammen und in ein Verhältnis bringt, ist die ihres Eigennutzes, ihres Sondervorteils, ihrer Privatinteressen. (マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化 Die Verwandlung von Geld in Kapital」1867年) |
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功利理論[Nützlichkeitstheorie」においては、これらの大きな諸関係にたいする個々人の地位、個々の個人による目前の世界の私的搾取[Privat-Exploitation]以外には、いかなる思弁の分野も残っていなかった。この分野についてベンサムとその学派は長い道徳的省察をやった。(マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」1846年) |
言語における仮面が唯一意味をもつのは、無意識的あるいは、実際の仮面の故意の表出のときのみである。この場合、功利関係はきわめて決定的な意味をもっている。すなわち、私は他人を害することによって自分を利する(人間による人間の搾取) ということである。 Die Maskerade in der Sprache hat nur dann einen Sinn, wenn sie der unbewußte oder bewußte Ausdruck einer wirklichen Maskerade ist. In diesem Falle hat das Nützlichkeitsverhältnis einen ganz bestimmten Sinn, nämlich den, daß ich mir dadurch nütze, daß ich einem Andern Abbruch tue (exploitation de l'homme par l'homme <Ausbeutung des Menschen durch den Menschen>); (マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」1845-1846 年) |
この相互搾取理論は,ベンサムがうんざりするほど詳論したものだ[Wie sehr diese Theorie der wechselseitigen Exploitation, die Bentham bis zum Überdruß ausführte, ](マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」 1846年) |
仮に意識的にはそれを知らなくても、彼らは無意識的にベンサム主義者になるーー《彼らはそれを知らないが、そうする[ Sie wissen das nicht, aber sie tun es]》(マルクス『資本論』第1巻「一般的価値形態から貨幣形態への移行」) |
“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”(後は野となれ山となれ!)、これがすべての資本家およびすべての資本主義国民のスローガンである[Après moi le déluge! ist der Wahlruf jedes Kapitalisten und jeder Kapitalistennation. ](マルクス『資本論』第1巻「絶対的剰余価値の生産」) |
オメデトウ、自由主義者たち! 搾取の自由はすぐさま拷問の自由、戦争の自由に向かうぜ。
これがイヤだったら民主主義を選択する他ないのかね。
ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない。民主主義の歴史には多くの独裁制があった。Bolschewismus und Fascismus dagegen sind wie jede Diktatur zwar antiliberal, aber nicht notwendig antidemokratisch. In der Geschichte der Demokratie gibt es manche Diktaturen, (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版) |
民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異邦人や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…] Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版) |
おい、どっちが好きなんだい、そこのボウヤたち?
甘いんだよ、まともに考えたことないだろ、民主主義と自由主義というシニフィアンについて。足りないんだよ、疑問符の打ち方が。ーー《いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ[Man vergißt immer wieder, auf den Grund zu gehen. Man setzt die Fragezeichen nicht tief genug.]》(ウィトゲンシュタイン『反哲学的断章』未発表草稿)
ところで、いまやってる代理戦争ってのはネオコンの悪(新自由主義の悪)のせいなのか、民主主義の悪のせいなのかどっちだろうね。カストロはこう言ってるけどさ。 |
ヨーロッパで起きる次の戦争はロシア対ファシズムだ。ただし、ファシズムは民主主義と名乗るだろう。La próxima guerra en Europa será entre Rusia y el fascismo, pero al fascismo se le llamará democracia(フィデル・カストロ Fidel Castro、Max Lesnikとの対話にて、1990年) |
どっちなんだろ、どっちもありだな、自由主義的搾取と民主主義的ファシズムによる戦争だよ、あれは。
もしデモクラシーがそんなに好きなら、自由と民主主義を守るために徹底抗戦を!などと寝言を言い続けてきた国際政治学者やら軍事オタクやらの木瓜集団を「民主主義的に」排除殲滅することじゃないかい?