このブログを検索

2022年9月22日木曜日

ロシアに対する欧米の憎悪はそもそも何によるのだろうか?

 

プーチン演説全文を読んでみたが、ーー部分的に邦訳している人がいるーー、《我々に対するヨーロッパのこの憎悪はそもそも何によるのだろうか?》って感じだなあ。米国も含めて、「ロシアに対する欧米の憎悪はそもそも何によるのだろうか?」ってことだ。


※追記

YouTube  プーチン大統領, 演説 2022年9月21日 (フルスピーチ )~ Vladimir Putin ~ Address on September 21, 2022(日本語字幕)



しかし我々に対するヨーロッパのこの憎悪はそもそも何によるのだろうか?  ヨーロッパがなんとしても永遠に我々を信頼することが出来ないのはなぜだろうか? 我々が無害であること、我々が彼らの友人であり従僕、しかも良き従僕であって、ヨーロッパにおける我々の使命はひたすらヨーロッパ及びその安寧に奉仕するものであるということを、彼らは何故信頼できないのだろうか? 〔・・・〕いや彼らは我々を信じることはできない。その主たる理由は、 彼らが決して我々を自分の身内と認めることが出来ないからなのである。(ドストエフスキー『作家の日記』1881, 1, 2-3. XXVII)

あのロシア人という連中はそもそも何者なのだ。アジア人か、 タタールか?  もしそうならば少なくとも問題は明瞭になるのだがそれがそうではないのだ。 そうでないと認めざるを得ないから始末が悪いのだ。 それにしても我々と彼らはなんとかけ離れていることか。 それにあのスラブ民族の団結とは何のことだろう? その目的は、 意図は?  この危険な統一は我々に何を、 どんな新しいことを物語るのだろう?(ドストエフスキー『作家の日記』1876, 9, 1-1.XXIII)

ヨーロッパ自体に自らの内側の政治的・民族的問題を解決する能力はない。しかし彼らは問題が表面化するたびに、一時的にせよそれをもみ消そうとして、問題の原因をこの得体の知れないロシアに転嫁しようとするのである。(ドストエフスキー『作家の日記』1876, 9, 1-1.XXIII)




ーーフョードル・パーヴロヴィッチ曰く、《それはこうですよ、あの男は実際わしになんにもしやしませんが、その代わりわしのほうであの男に一つきたない、あつかましい仕打ちをしたんです。すると急にわしはあの男が憎らしくなりましてね。》(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)


《負い目(シュルツ)》というあの道徳上の主要概念は、《負債(シュルデン)》というきわめて物質的な概念に由来している」と、ニーチェはいっている。彼が、情念の諸形態を断片的あるいは体系的に考察したどんなモラリストとも異なるのは、そこにいわば債権と債務の関係を見出した点においてである。俺があの男を憎むのは、あいつは俺に親切なのに俺はあいつにひどい仕打ちをしたからだ、とドストエフスキーの作中人物はいう。これは金を借りて返せない者が貸主を憎むこととちがいはない。つまり、罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しであるというのがニーチェの考えである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)




われわれの研究の本筋を再び辿ることにするが、負い目とか個人的責務という感情[Das Gefühl der Schuld, der persönlichen Verpflichtung]は、われわれの見たところによれば、その起源を存在するかぎりの最も古い最も原始的な個人関係のうちに、すなわち、買手と売手[Käufer und Verkäufer]、債権者と債務者[Gläubiger und Schuldnerの間の関係のうちにもっている。ここで初めて個人が個人に対時し、ここで初めて個人が個人に対比された。この関係がすでに多少でも認められないほどに低度な文明というものは、未だに見出されないのである。値を附ける、価値を量る、等価物を案出し、交換するーーこれらのことは、人間の最も原初的な思惟を先入主として支配しており、従ってある意味では思惟そのものになっているほどだ。最も古い種類の明敏さはここで育てられた。人間の矜持、他の畜類に対する優越感の最初の萌芽も同じくここに求められるであろう。

事によると、《Mensch》[人間](manas) というわれわれの言葉もやはり、ほかならぬこの自己感情のあるものを表現しているのかもしれない。人間は価値を量る存在、評価し、量定する存在、「本来価値を査定する動物」として自らを特色づけた。Vielleicht drückt noch unser Wort »Mensch« (manas) gerade etwas von diesem Selbstgefühl aus: der Mensch bezeichnete sich als das Wesen, welches Werte mißt, wertet und mißt als das »abschätzende Tier an sich«. –(ニーチェ『道徳の系譜』第2篇8 )



ミソジニーの起源もここにあるかもな、母は原債権者だから。


母の影はすべての女に落ちている[The shadow of the mother falls on every woman] 。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」What is it, son?


この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで[from sexism to misogyny ]。(Paul Verhaeghe, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)


全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957)

(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition.] 〔・・・〕

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](ラカン, S17, 11 Février 1970)