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2022年9月14日水曜日

原理と原理主義は違う、エビデンスとエビデンス主義は違うように

 原理と原理主義は違うんだよ、エビデンスとエビデンス主義は違うようにね。ボクは千葉雅也くんを批判することがあるが、彼はエビデンス主義について上手いこと言ってたよ、もう5年前になるか。


千葉雅也@masayachiba Jan 14, 2017

逆説的なことに、エビデンス主義って、まさしくポスト真理なんですね。エビデンスって、「真理という問題」を考えることの放棄だから。エビデンスエビデンス言うことっていうのは、深いことを考えたくないという無意識的な恐れの表明です。

根源的な問いを多様に議論するのをやめ、人それぞれだからという配慮で踏み込まなくなるというのは、精神医学の領域ですでに起こった変化だ。文明全体がそういう方向に向かっていると思う。残される課題は「現実社会の苦痛にどう対処するか」だけ。そもそも苦痛とは何かという問いは悪しき迂回になる。




千葉雅也はそこらへんのチョロチョロした社会学者やら千葉のツイートをトンチンカンに誤読して炎上させてるキャベツ頭の評論家らとは訳が違う。そこは誤解したらけっしてダメだ。


ま、もちろんトンチンカンな誤読がツイッター社交界のたぐいでは伝染し蔓延るってのは普遍的事態だが。


浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)


……………


で、中井久夫は原理主義者ではまったくないが、原理を徹底的に探るタイプだよ


私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)


原理主義者あるいはエビデンス主義者とは、原理やエビデンスをブラックボックスにしたままの「石器時代人」だよ。今はそんなヤツばかりだ。



怠惰な精神は規格化を以て科学化とする。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法とは何か」2002年初出『徴候・記憶・外傷』所収)

常にニーチェを思う。私たちは、繊細さの欠如によって科学的となるのだ[Toujours penser à Nietzsche : nous sommes scientifiques par manque de subtilité. ](『彼自身によるロラン・バルト』1975年)



斎藤環のような原理を探る精神がほとんどない人物を、中井久夫の後継者などと評価するツイートを垣間見ると、ボクは「死にたくなる」タイプなんだ、わかるかい?