この浅田彰は旨いね、
そもそも「都市」を認めない「トランプ村」の村人たちは「そんなものはマス・メディア村のフェイク・ニュースに過ぎない」と信じ込まされ、「事実」や「真実」の歯止め(カール・ポパーの言う反証主義の意味で)を失った言語ゲーム(「ああ言えばこう言う」という言語のレヴェルでの言い合い)のエスカレーションの中で、「マス・メディア村」への不信と憎悪を募らせるばかりなのだ。トランプの支持率が全体で4割前後なのに共和党支持者の間では9割近い高水準を保っている異様な政治状況の背後には、都市の広場(アゴラ)という共通の土俵の上での論争ではなく、そもそも土俵を共有しない村同士の部族的(tribal)な対立が全面化してきたというメディア論的変容があるのではないか。(浅田彰「トランプから/トランプへ(3)マクルーハンとトランプ、あるいはマス・メディア都市に対するトランプ村」2018年10月20日) |
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親米ネオコン村の重度障害ソンミンは放っておくとしても、親露派の方々はこのムラビトに陥らないように気をつけないとな、ときにその臭いがするときがあるよ。親ドンバス派の蚊居肢散人の忠告でした。
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この浅田彰のトランプ論はひと通り読んどいたほうがいいんじゃないかね
▼2018年11月 ▼2018年10月 「トランプから/トランプへ(4)クールなオバマと暑苦しいトランプ」 |
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たとえば④には、浅田彰が柄谷行人とともに繰り返してきた「偽善」(タテマエ)/「露悪」(ホンネ)の話がある。 |
オバマやクリントンが社会文化面でマイノリティの承認を強調しながら政治経済面ではウォール街べったりに見えるとき、彼らの語るマイノリティの承認の「政治的な正しさ(political correctness)」は「偽善」(タテマエ)と映り、それに対するトランプの「露悪」(ホンネ)が逆にカラフルな多文化主義の波に乗り遅れた大衆(教育水準・所得水準の低い白人男性を中心とする)――ヒラリー・クリントンが候補者にはあるまじき正直さをもって「残念な人たち(basket of deplorables)」と呼んだ連中――を惹きつけてしまうのだ。およそ恥というものを知らぬトランプの、この「露悪」の大波に抗するには、リベラル派は多文化主義の自画自賛を超えて現実的な「再分配の政治」を再構築する必要がある。〔・・・〕 |
民主党主流派がマイノリティの承認と多文化主義を語りながらウォール街との距離では共和党と五十歩百歩に見えるとき、それを「偽善」と見る有権者たちの多くがトランプの「露悪」を選んでしまったのである。だから、繰り返そう、ヨーロッパにおける反EU派(Brexitを頂点とする) 、あるいは「日本維新の会」(創設者の橋下徹を生み育てたのは露悪合戦で笑いを取る関西のお笑い文化だ)にも共通するこの「露悪」の大波に抗するには、リベラル派は多文化主義の自画自賛を超えて現実的な「再分配の政治」を再構築する必要がある。 誤解を避けるために強調しておくが、私は承認の問題を軽視しているわけではない。それどころか、とくに日本のように遅れた社会ではマイノリティの存在と権利の承認がこれからいよいよ本格的に進められるべきだと確信する。しかし、欧米で過去四半世紀にわたって強調されてきた「政治的正しさ」が、いまやしばしば「偽善」と受け取られ、トランプのような反動派の「露悪」に敗北するというバックラッシュの流れは、われわれも教訓とすべきだろう。(浅田彰「トランプから/トランプへ(4)クールなオバマと暑苦しいトランプ」2018年10月) |
浅田彰がバイデンを「偽善」(タテマエ)、トランプを「露悪」(ホンネ)とする最近の発言を馬鹿にしようと思って、この2018年の記事をあらためて読み返すとなかなか侮れないな。
かつて柄谷とともに次の話をした浅田だが。
柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。 むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。 |
浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。〔・・・〕 日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年) |
漱石の①の話はこれでいいんだ。問題は②だね。
①偽善と露悪 |
近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。〔・・・〕 昔は殿様と親父だけが露悪家ですんでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でもなんでもない。臭いものの蓋をとれば肥桶で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。(夏目漱石『三四郎』1908年) |
②もっとも優美な露悪家ーー偽善を行うに露悪をもってする |
「うん、まだある。この二十世紀になってから妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本位でみたすというむずかしいやり口なんだが、君そんな人に出会ったですか」 「どんなのです」 「ほかの言葉でいうと、偽善を行うに露悪をもってする。まだわからないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。――昔の偽善家はね、なんでも人によく思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないようにしむけてゆく。相手はむろんいやな心持ちがする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違いないから、――そら、二位一体というようなことになる。この方法を巧妙に用いる者が近来だいぶふえてきたようだ。きわめて神経の鋭敏になった文明人種が、もっとも優美に露悪家になろうとすると、これがいちばんいい方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのはずいぶん野蛮な話だからな君、だんだん流行らなくなる」(夏目漱石『三四郎』1908年) |
バイデンってこの②の「もっとも優美な露悪家」じゃないかい、アキラちゃん?
この話をしようと思ったんだが、ま、それはこの際この今はこれ以上突っ込むのはやめておくよ。われわれには「偽善」が必要だということは確かに違いない、ここではそれだけを強調しておこう、つまりは「左翼」であることが。
左翼であることは、先ず世界を、そして自分の国を、家族を、最後に自分自身を考えることだ。右翼であることは、その反対である[Être de gauche c’est d’abord penser le monde, puis son pays, puis ses proches, puis soi ; être de droite c’est l’inverse](ドゥルーズ『アベセデール』1995年) |
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イケネ、西部邁のケッタイな声が聞こえてきたよ。 |
まず、「自由・平等・博愛」の理想主義を叫び、次にそれのもたらす「放縦・画一・偽善」に堪りかねて「秩序・格差・競合」の現実主義に頼ろうとし、それが「抑圧・差別・酷薄」をもたらすや、ふたたび元の理想主義に還らんとする、そういう循環を今もなお繰り返している代表国はどこかとなると、誰しも「アメリカ」と答えるにきまっています。 つまり、 アメリカは左翼国家の見本なのです。 それもそのはず、 「左翼主義」 (leftism) とは近代主義の純粋型にほかなりません。 歴史感覚の乏しい北米大陸で純粋近代主義の壮大な(もしくは狂気の沙汰めいた) 社会実験が行われつづけた、あるいはそれを行うしかない成り行きであった、とみるべきなのです。 今もアメリカは、他国に(あろうことか日本占領のGHQ方式、つまり「総司令部」のやり方を模型として)「ネーション・ビルディング」(国民あるいは国家の建設、 nation building)を押しつけようとしたり、自国の「再構築(リメーキング)」を企画したりしております。 アメリカは左翼国家であると断言できない者は、近代主義の本質が「歴史の設計」を可能とみる「理性への信仰」にあることをわきまえていないのです。 (西部邁『昔、言葉は思想であった -語源からみた現代-』2009年) |
以上、「もっとも優美な露悪家」の資質を持っていないではない蚊居肢子の「告白」でした。
自己を語る遠まわしの方法[une manière de parler de soi détournée]であるかのように、人が語るのはつねに他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ[qui joint au plaisir de s'absoudre celui d'avouer.]。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」) |
人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする[Habituellement, on déteste ce qui nous est semblable, et nos propres défauts vus du dehors nous exaspèrent]。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! (プルースト「囚われの女」) |
肝腎なのはタテマエ/ホンネといっても、ーーホンネに対してタテマエで防衛してもーー、人には必ずホンネの残滓があることだよ。
われわれが「高次の文化」と呼ぶほとんどすべてのものは、残酷さの精神化の上に成り立っているーーこれが私のテーゼである。あの「野獣」が殺害されたということはまったくない。まだ、生きておりその盛りにある、それどころかひたすら――神聖なものになっている。Fast Alles, was wir "hoehere Cultur" nennen, beruht auf der Vergeistigung und Vertiefung der Grausamkeit - dies ist mein Satz; jenes "wilde Thier" ist gar nicht abgetoedtet worden, es lebt, es blueht, es hat sich nur -vergoettlicht. (ニーチェ『善悪の彼岸』229番、1886年) |
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ゲーテは、美徳とともに、欠点も育まれると正しく言った。また、誰もが知っているように、肥大した美徳は、ーー私には、現代の歴史的意味と思われるがーー肥大した悪徳と同様に、人々の破滅になりかねない。 Goethe mit gutem Rechte gesagt hat, daß wir mit unseren Tugenden zugleich auch unsere Fehler anbauen, und wenn, wie jedermann weiß, eine hypertrophische Tugend – wie sie mir der historische Sinn unserer Zeit zu sein scheint – so gut zum Verderben eines Volkes werden kann wie ein hypertrophisches Laster: ニーチェ『反時代的考察』第2部「序文」1876年) |
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これが、西部邁曰くの《「自由・平等・博愛」の理想主義を叫び、次にそれのもたらす「放縦・画一・偽善」に堪りかねて「秩序・格差・競合」の現実主義に頼ろうとし、それが「抑圧・差別・酷薄」をもたらすや、ふたたび元の理想主義に還らんとする、そういう循環を今もなお繰り返している代表国》の姿だよ。
浅田彰はこの悪の循環の原動因がどこにあるのかをよくわかってる筈なんだがな、ーー《資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫するだけ。》(浅田発言「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」シンポジウム 2000.11.17)ーーでも真に突き詰めるのからいつのまにか降りちゃた気配がないでもないな、アキラメタのかね。それとも最近の発言群はたんなるメタアキラなんだろうか? 敵の敵は味方じゃないんだからさ、いくらなんでもトランプよりバイデンましですますわけにはいかないぜ、メタアキラちゃんよ!