このブログを検索

2022年10月1日土曜日

サビナマインド

 

サビナマインドがふつふつと湧き起こるな、今回のプーチン演説で親露派がひどくアツくなっているのを眺めると。《こぶしを上につき上げ、ユニゾンで区切って同じシラブルを叫ぶ人たち》を見ると引くんだ。古井由吉が書いているように、と言ったっていい、《私は人を先導したことはない。むしろ、熱狂が周囲に満ちると、ひとり離れて歩き出す性質だ。》(古井由吉『哀原』女人)。とはいえ世界が反米ネオコンで一致団結したらアツくなっちまうかもしれない。手始めにヨーロッパで何でそれがいまだ起こらないんだろ?


サビナは学生時代、寮に住んでいた。メーデーの日は全員が朝早くから行進の列をととのえる集会場に行かねばならなかった。欠席者がいないように、学生の役員たちは寮を徹底的にチェックした。そこでサビナはトイレにかくれ、みんながとっくに出ていってしまってから、自分の部屋にもどった。それまで一度も味わったことのない静けさであった。ただ遠くからパレードの音楽がきこえてきた。それは貝の中にかくれていると、遠くから敵の世界の海の音がきこえてくるようであった。


チェコを立ち去ってから二年後、ロシアの侵入の記念日にサビナはたまたまパリにいた。抗議のための集会が行なわれ、彼女はそれに参加するのを我慢することができなかった。フランスの若者たちがこぶしを上げ、ソビエト帝国主義反対のスローガンを叫んでいた。そのスローガンは彼女の気に入ったが、しかし、突然彼らと一緒にそれを叫ぶことができないことに気がつき驚いた。彼女はほんの二、三分で行進の中にいることがいたたまれなくなった。

サビナはそのことをフランスの友人に打ちあけた。彼らは驚いて、「じゃあ、君は自分の国が占領されたのに対して戦いたくないのかい?」と、いった。彼女は共産主義であろうと、ファシズムであろうと、すべての占領や侵略の後ろにより根本的で、より一般的な悪がかくされており、こぶしを上につき上げ、ユニゾンで区切って同じシラブルを叫ぶ人たちの行進の列が、その悪の姿を写している[pour elle, l'image de ce mal, c'étaient les cortèges de gens qui défilent en levant le bras et en criant les mêmes syllabes à l'unisson]といおうと思った。しかし、それを彼らに説明することができないだろうということは分かっていた。そこで困惑のうちに会話を他のテーマへと変えたのである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』1984年)



………………………


サビナの話とはいくらかズレるが、愛国心鼓舞というのがどうも一番抵抗がある。この期に及んでのプーチンにはそれが欠かせないのはよくわかるにしろ。



ナルシシズムの背後には、死がある[derrière le narcissisme, il y a la mort.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 06/04/2011)


自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である[Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)




自我の起源には死がある。…死はもちろん生物学的死ではない。厳密に自殺の死である。この理由で、ラカンは二つの形容詞を結びつけた。ナルシシズム的と自殺的である。

aux origines du moi, il y a la mort,[…] Cette mort, bien entendu, ce n'est pas la mort biologique. C'est exactement la mort suicide. Et c'est pourquoi Lacan peut lier les deux adjectifs: narcissique et suicidaire. (Jacques-Alain Miller, DONC,  26 janvier 1994)

ナルシシズムの自殺的攻撃[l'agression suicidaire du narcissisme]. (Lacan, Propos sur la causalité psychique , E174, 1946)






◼️ナショナリズムのナルシシズム的性格による異なる文化圏のあいだの軋轢と不和の種

ところで、とかくわれわれは、ある文化が持っているさまざまの理想ーーすなわち、最高の人間行為、一番努力に値する人間行動は何かという価値づけーーをその文化の精神財の一部とみなしやすい。すなわち、一見したところ、その文化圏に属する人間の行動はこれらの理想によって方向づけられるような印象を受けるのである。ところが真相は、生まれつきの素質とその文化の物的環境との共同作業によってまず最初の行動が生じ、それにもとづいて理想が形成されたあと、今度はこの理想が指針となって、それらの最初の行動がそのまま継続されるという逆の関係らしい。したがって、理想が文化構成員に与える満足感は、自分がすでに行なってうまくいった行動にたいする誇りにもとづくもの、つまりナルシシズム的性格[narzißtischer Natur]のものである。この満足感がもっと完全になるためには、ほかのさまざまな文化ーーほかのタイプの人間行動を生み出し、ほかの種類の理想を発展させてきたほかのさまざまな文化――と自分との比較が必要である。どの文化も「自分には他の文化を軽蔑する当然の権利がある」と思いこんでいるのは、文化相互のあいだに認められるこの種の相異にもとづく。


このようにして、それぞれの文化が持つ理想は、異なる文化圏のあいだの軋轢と不和の種になるのであり、このことは、国家と国家のあいだの現状に一番はっきりとあらわれている。[die Kulturideale Anlaß zur Entzweiung und Verfeindung zwischen verschiedenen Kulturkreisen, wie es unter Nationen am deutlichsten wird. ]

文化理想が与えるこのナルシシズム的な満足はまた、同一文化圏の内部でのその文化にたいする敵意をうまく抑制するいくつかの要素の一つでもある「Die narzißtische Befriedigung aus dem Kulturideal gehört auch zu jenen Mächten, die der Kulturfeindschaft innerhalb des Kulturkreises erfolgreich entgegenwirken]。

つまり、その文化の恩恵を蒙っている上層階級ばかりではなく、抑えつけられている階層もまた、他の文化圏に属する人たちを軽蔑できることのなかに、自分の文化圏内での不利な扱いにたいする代償が得られるという点で、その文化の恩恵に浴しうるのである。「なるほど自分は、借金と兵役に苦しんでいる哀れな下層階級にはちがいない。でもそのかわり、自分はやはりローマ市民の一人で、 他の諸国民を支配自分の意のままに動かすという使命の一端をになっているのだ」というわけである。 しかし、抑えつけられている社会階層が自分たちを支配し搾取している社会階層と自分とをこのように同一化することも、さらに大きな関連の一部にすぎない。すなわち、この社会階層の人々は、一方では敵意を抱きながらも、他面においては、感情的にも支配階層に隷属し、支配階層を自分たちの理想と仰ぐことも考えられるのだ[Anderseits können jene affektiv an diese gebunden sein, trotz der Feindseligkeit ihre Ideale in ihren Herren erblicken. ]。基本的には満足すべきものであるこの種の事情が存在しないとするならば、大多数を占める人々の正当な敵意にもかかわらず、多数の文化圏がこれほど長く存続してきたことは不可解という他はあるまい。(フロイト『ある幻想の未来』第2章、1927年)




◼️ナショナリズムの萎びた想像力が、なぜこんな途方もない犠牲を生み出すのか

ネーション〔国民 Nation〕、ナショナリティ〔国民的帰属 nationality〕、ナショナリズム〔国民主義 nationalism〕、すべては分析するのはもちろん、定義からしてやたらと難しい。ナショナリズムが現代世界に及ぼしてきた広範な影響力とはまさに対照的に、ナショナリズムについての妥当な理論となると見事なほどに貧困である。ヒュー・シートンワトソンーーナショナリズムに関する英語の文献のなかでは、もっともすぐれたそしてもっとも包括的な作品の著者で、しかも自由主義史学と社会科学の膨大な伝統の継承者ーーは慨嘆しつつこう述べている。「したがって、わたしは、国民についていかなる『科学的定義』も考案することは不可能だと結論せざるをえない。しかし、現象自体は存在してきたし、いまでも存在している」。〔・・・〕

ネーション〔国民Nation〕とナショナリズム〔国民主義 nationalism〕は、「自由主義」や「ファシズム」の同類として扱うよりも、「親族」や「宗教」の同類として扱ったほうが話は簡単なのだ[It would, I think, make things easier if one treated it as if it belonged with 'kinship' and 'religion', rather than with 'liberalism' or 'fascism'. ]


そこでここでは、人類学的精神で、国民を次のように定義することにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるーーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像されると[In an anthropological spirit, then, I propose the following definition of the nation: it is an imagined political community - and imagined as both inherently limited and sovereign. ]〔・・・〕

国民は一つの共同体として想像される[The nation …it is imagined as a community]。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛[comradeship]として心に思い描かれるからである。


そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀わたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである[Ultimately it is this fraternity that makes it possible, over the past two centuries, for so many millions of people, not so much to kill, as willingly to die for such limited imaginings. ]

これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的間題に正面から向いあわせる。なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか。そのひとつの手掛りは、ナショナリズムの文化的根源に求めることができよう。These deaths bring us abruptly face to face with the central problem posed by nationalism: what makes the shrunken imaginings of recent history (scarcely more than two centuries) generate such colossal sacrifices? I believe that the beginnings of an answer lie in the cultural roots of nationalism.

(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体(Imagined Communities)』1983年)



ーー《ナショナリズムは戦争だ![Le nationalisme, c'est la guerre !](フランソワ・ミッテラン演説 François Mitterrand, 17 janvier 1995