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2022年10月29日土曜日

揺れと襞、あるいは悠治バルトプルースト

 

記憶と夢のあいだ  高橋悠治 2009


理論からははじまらない 眼に見えるものではなく 手をうごかし 問いかけるうちに 直線ではなく 揺れと襞 ずれる時間 複数のシステム 断片をまとめたり ととのえたりしないで それぞれに裂け目を入れ 断層をのぞかせ 聞こえないものを聴き 手探りで方向を変えながらすすむ


記憶と夢のあいだ というより 思い出せないことを思い出し まだどこにもないものを夢みるのが音楽だ という ますます強くなる予測に突き動かされ 手をうごかすなかで新しい発見がある それはまだことばになりきれないままで 途切れるとそのまま消えてしまう輪のように かたちもなく 宙に浮いている


煙のように空中に消えるもの 断片をモンタージュして何かを構成するのではなく 全体と部分の階層性を作らないもの 断片を断片のまま変形し 規範からはずれ 予測できない空間にひらくもの 生きる時間の闇のなかで微かに光る徴 哀しみの明るさ 夢の手触り


音楽は音のうごきであり 聞く耳と楽器や声を使う身体の運動感覚や内部感覚 それに感じというとらえがたいものによって維持されている 音は止まれば消え 音楽はとどめようもなく過ぎてゆく それだから消えた記憶をよみがえらせ まだない世界を予感する それが音楽の社会性あるいは政治性なのだが ことばのように世界内の存在や状態を指し示したりするというよりは 「いま・ここ」でないところに注意を向けるきっかけになったとしても それも文化的環境や歴史状況に条件づけられ 主体的な意志をはたらかせなければ何も響いてこない しかし そのあいまいさが音楽の強みでもあり 逆に ことばと結びついたときは相互作用によって強い力をもつことがある


国家主義と古典主義はおなじ側にある 規律や構成のように外部的で静的なバランスにもとづく管理 記号や表象の操作 内面化した自己規制 全体が矛盾なくたった一つの原理あるいはたった一つの構成要素から説明できると考える超合理主義 複雑性やあいまいな状態をデジタルな二分法で還元すること 方法主義 そうしたやりかたで裏打ちされた「新しい」単純性 これが1930年代以来の現代音楽の病気だった 演奏スタイルや ちがうジャンルの たとえばポップについても 似たような現象を指摘することができるだろう


音を物・記号・表象として操作しようとするとき 音を手段として構成される抽象的・普遍的全体 あるいは表面に民族主義・伝統美学・アジア思想を思わせる要素を貼付けてはいても 画一化された均質な部品でモジュール化された現代音楽は フェスティバルという見本市で消費されるだけのもの それは非商業的と言っても じつは少量生産される文化の「贅沢品」として 国家や財団の先物買いの対象になる


音楽は「いま・ここ」に留め置いて味わったり 分析し定義し 理論的に再構成するしようとしても かなたへ逃れて とらえどころがない 音楽論や音楽美学や音楽批評は 音楽の創造には追いつけないだろう ことばで語れるのは可能性でしかない それでもそのようなことばであれば それらの語る自由な夢が 音楽の社会的機能を維持し活性化するのにこの上ないはげましともなってきた ここにあるものではなく どこにもまだ現れていない音楽の夢を語るものである限りは


歩きながら問いかける 問いかけながら歩く これがサパティスタのはじめた運動論だった 1994年のことだ それ以来 ちがう領域でのさまざまな試みを参照しながら すでになされた行為の結果を分析する方法や それ以上変化しない素材や それ以上分解できない単位を組み合わせて作る秩序ではなく うごきつづけ変化してやまないプロセスのなかにありながら それ自身について考える可能性が見えて来た 再帰する生命・意識・認識システムや社会システムをあつかおうとするオートポイエーシスのようにまだ発展途上の理論や 生きている身体が心であることを内側の感覚を維持しながら意識し続ける仏教的な方法 さらに「いまだない」を哲学するエルンスト・ブロッホ doingdone power topower overを区別して存在ではなく可能性から反権力の政治思想を導きだすジョン・ホロウェイ どれも完成された理論ではなく そうなるはずもなかった


音楽は いまある世界をそのままにしておこうとする権力や制度とは もともとあいいれないものだった だが 権力はいつも音楽を自分の側にとりこみ その想像力を自分のために使おうとしてきた だから音楽作品は 完成されたものであるほどゆがみ 可能性は消耗させられ 夢は砕かれ 抑圧され 逆転して その断片だけが散乱している 未完成なものほど 見えない芽をどこかにひそめて 発見される時を待ち望んでいる



…………………



◼️瞬間の体系

プルーストが選んだ形式、それはまさに『失われた時』の形式です。小説でしょうか。エッセーでしょうか。どちらでもありません。あるいは、同時に両方でもあります。私が第三の形式と呼ぶものです。la forme qu’il a choisie : c’est celle-là même de la Recherche. Roman ? Essai ? Aucun des deux ou les deux à la fois : ce que j’appellerai une tierce forme.〔・・・〕


プルーストの睡眠から発した作品(第三の形式)は「時間」の(時間の論理[クロノジー])の解体という挑発的な原理に基づいています。ところで、それは非常に現代的な原理です。 バシュラールは《出来の悪い持続の偽りの恒常性を魂から取り除く》ことを目指すこの力をリズムと呼んでいます。この定義は『失われた時』にとてもよく当てはまります。この作品の努力は、贅沢なものですが、伝記の偽りの恒常性から思い出された時間を救い出すことに捧げられているからです。 ニーチェは、もっと簡潔に、《世界を細分して、全体を大事にすることをやめなければならない》といっています。ジョン・ケージは、音楽作品の未来を予言して、《いずれにせよ、全体は解体することになろう》と述べています。こうした揺れ動きは浮かぶがままの無秩序な連想というわけではありません。 プルーストはいささか残念そうに述べています。《私が気ままで偶然的な連想に身を委ねて私の生涯の歴史を書いていると読者は考えるにちがいありません。》ところが、それは、バシュラールの言葉をもう一度取り上げるならば、リズムなのです。 もっと複雑にいえば、《瞬間の体系》(これもバシュラールの言葉ですが)が連なって、しかも、照応し合うのです。


Issue du sommeil, l'œuvre (la tierce forme) repose sur un principe provocant: la désorganisation du Temps (de la chronologie). Or, c'est là un principe très moderne. Bachelard appelle rythme cette force qui vise à « débarrasser l'âme des fausses permanences des durées mal faites », et cette définition s'applique très bien à La Recherche, dont tout l'effort, somptueux, est de soustraire le temps remémoré à la fausse permanence de la biographie. Nietzsche, plus lapidairement, dit qu'« il faut émietter l'univers, perdre le respect du tout », et John Cage, prophétisant l'œuvre musicale, annonce : « De toute manière, le tout fera une désorganisation. » Cette vacillation n'est pas une anarchie aléatoire d'associations d'idées: «Je vois, dit Proust avec une certaine amertume, les lecteurs s'imaginer que j'écris, en me fiant à d'arbitraires et fortuites associations d'idées, l'histoire de ma vie.» En fait, si l'on reprend le mot de Bachelard, il s'agit d'un rythme, et fort complexe: des « systèmes d'instants» (encore Bachelard) se succèdent, mais aussi, se répondent.

(ロラン・バルト《長い時にわたって、私は早くから寝たものだ》1978年)




◼️失われた時の記憶、身体の記憶

私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]〔・・・〕

匂い、疲れ、声の響き、流れ、光、リアルから来るあらゆるものは、どこか無責任で、失われた時の記憶を後に作り出す以外の意味を持たない[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières, tout ce qui, du réel, est en quelque sorte irresponsable et n'a d'autre sens que de former plus tard le souvenir du temps perdu ]〔・・・〕

幼児期の国を読むとは、身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだ[Car « lire » un pays, c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps. ](ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)


◼️享楽の身体、漂流している主体

私に快楽を与えたテクストを《分析》しようとする時、いつも私が見出すのは私の《主体性》ではない。私の《個体》である。私の身体を他の身体から切り離し、固有の苦痛、あるいは、快楽を与える与件である。私が見出すのは私の享楽の身体である。

Chaque fois que j'essaye d'"analyser" un texte qui m'a donné du plaisir, ce n'est pas ma "subjectivité" que je retrouve, c'est mon "individu", la donnée qui fait mon corps séparé des autres corps et lui approprie sa souffrance et son plaisir: c'est mon corps de jouissance que je retrouve.

そして、この享楽の身体はまた私の歴史的主体である。なぜなら、伝記的、歴史的、神経症的要素(教育、社会階級、小児的形成、等々)が極めて微妙に結合しているからこそ、私は(文化的)快楽と(非文化的)享楽の矛盾した働きを調整するのであり、また、余りに遅く来たか、あるいは、余りに早く来たか(この余りには未練や失敗や不運を示しているのではなく、単にどこにもない場所に招いているだけだ)、現に所を得ていない主体、時代錯誤的な、漂流している主体として自分自身を書くからである。

Et ce corps de jouissance est aussi mon sujet historique; car c'est au terme d'une combinatoire très fine d'éléments biographiques, historiques, sociologiques, névrotiques (éducation, classe sociale, configuration infantile, etc.) que je règle le jeu contradictoire du plaisir (culturel) et de la jouissance (inculturelle), et que je m'écris comme un sujet actuellement mal placé, venu trop tard ou trop tôt (ce trop ne désignant ni un regret ni une faute ni une malchance, mais seulement invitant à une place nulle) : sujet anachronique, en dérive (ロラン・バルト『テキストの快楽』1973年)


◼️享楽の漂流

享楽、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである[la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. ](『彼自身によるロラン・バルト』1975年)

私は欲動を翻訳して、漂流、享楽の漂流と呼ぶ[j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. ](ラカン、S20、08 Mai 1973)


◼️享楽の痛み

私の享楽あるいは私の痛み[ma jouissance ou ma douleur](ロラン・バルト『明るい部屋』第11章、1980年)

疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れ始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966)


◼️ヴァントゥイユの小楽節の痛み

昔スワンが、自分の愛されていた日々のことを、比較的無関心に語りえたのは、その語り口のかげに、愛されていた日々とはべつのものを見ていたからであること、そしてヴァントゥイユの小楽節が突然彼に痛みをひきおこした[la douleur subite que lui avait causée la petite phrase de Vinteuil] のは、愛されていた日々そのものをかつて彼が感じたままによみがえらせたからであることを、私ははっきりと思いだしながら、不揃いなタイルの感覚、ナプキンのかたさ、マドレーヌの味が私に呼びおこしたものは、私がしばしば型にはまった一様な記憶のたすけで、ヴェネチアから、バルベックから、コンブレーから思いだそうと求めていたものとは、なんの関係もないことを、はっきりと理解するのであった。(プルースト「見出された時」)



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※参照


◼️享楽のプンクトゥムのゆらめく閃光

ストゥディウムは、つねにコード化されているが、プンクトゥムは、そうではない[Le studium est en définitive toujours codé, le punctum ne l'est pas]。〔・・・〕それ(プンクトゥム)は鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光なのである[il est aigu et étouffé, il crie en silence. Bizarre contradiction : c'est un éclair qui flotte.](ロラン・バルト『明るい部屋』第22章「事後と沈黙」ーー「プンクトゥムと享楽ーーロラン・バルトのプンクトゥム文献集」



ーー《『明るい部屋』のプンクトゥム[punctum]は、ストゥディウムに染みを作るものである[fait tache dans le studium]。私は断言する、これはラカンのセミネールXIにダイレクトに啓示を受けていると。ロラン・バルトの天才[ le génie propre de Roland Barthes] が、正当的なスタイルでそれを導き出した。…そしてこれは現実界の効果[l'Effet de réel]と呼ばれるものである。》(J.-A. Miller, L'Être et l'Un - 2/2/2011)



プンクトゥムとは、刺し傷、小さな、小さな染み、小さな裂け目のことでありーーしかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。

car punctum, c'est aussi : piqûre, petit trou, petite tache, petite coupure ― et aussi coup de dés. Le punctum d'une photo, c'est ce hasard qui, en elle, me point (mais aussi me meurtrit, me poigne).(ロラン・バルト『明るい部屋』第10章「Studium et Punctum」)



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理論からははじまらない 眼に見えるものではなく 手をうごかし 問いかけるうちに 直線ではなく 揺れと襞 ずれる時間 複数のシステム 断片をまとめたり ととのえたりしないで それぞれに裂け目を入れ 断層をのぞかせ 聞こえないものを聴き 手探りで方向を変えながらすすむ (高橋悠治「記憶と夢のあいだ」2009年)



声・文字・音  高橋悠治 2001年


遠い響 ここからすべてがはじまる
聴くともなく 遠い響が聞こえる
途切れない響に包まれている感覚がある
どこに


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音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド ピアノソロ』最終章「アリア」)

痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)


痛みは明らかに苦しみと対立する。痛みは、異者性・親密性・遠くにあるものの顔である。la douleur, ici nettement opposée à la souffrance. Douleur qui prend les visages, (…)  de l'étrangeté, de l'intime, des lointains. (Michel Schneider,  La tombée du jour : Schumann)

最も近くにあるものは最も異者である。すなわち近接した要素は無限の距離にある。le plus proche soit le plus étranger ; que l’élément contigu soit à une infinie distance. . (Michel Schneider,  La tombée du jour : Schumann)


現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



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トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)

トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕

この作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]

この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)