◼️水牛だより 高橋悠治 |
「冷戦終焉後の世代」のほとんどはどうしようもないんだよな。もはや資本主義批判ゼロでね、資本の言説の掌の上で踊る猿ばっかりだ。
以下、高橋悠治の文をいくつか抜き出すけどさ、これは音楽の分野だけにまったく限らない。1978年の文に既に、《羊たちの背をなでる生ぬるい風の上に、かすかに灰色の雲がひろがっていく》とあるが、かつてはわずかでも自ら「灰色の雲」を感じた連中が多かったよ、いまはそれさえまったく感じてなさそうなヤツが、「にこやかに」音楽活動、芸術活動してんだから。
『ロベルト・シューマン』 高橋悠治 1978年 |
見取り図
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日本の音楽家はテクノロジーも異質の伝統も国内でまかなうことができる。一九六〇年代後半にはじまる日本楽器や伝統芸能の再評価は、伝統や楽器自体の変革にはつながらず、西洋音楽の素材をゆたかにしたにすぎなかった。江戸芸能の封建性、過度の専門化とワザの余地をのこすために故意に保存される楽器操作の非合理性、抑圧された感性や無内容な型は、保存されるだけでなく、独自な美的価値をもつように考えられた。伝統美学の普遍性が抽象的な時間・空間・人間のなかで主張される、これらのカテゴリーの抽象性が近代ヨーロッパの具体性の別名にすぎないことをわすれて。美学や思想が具体的な状況をはなれてそれ自身としてだけ問題にされること自体が、近代の技術信仰の表現だ。 |
芸術の領域でも統合の過程はすすむだろう。これまでのように、あらゆる傾向をまぜあわせて中性化し、批判を無効にするだけでは充分ではない。そらぞらしいことばや映像や音の洪水にまぎれて沈黙のうちにコトをすすめるという日和見主義では、拡張主義や文化統制の実体をおおうことがむつかしくなっている。積極的に支配のことばを打ちだし、批判を排除しないまでも周辺の安全地帯に誘導する操作が必要な時期だ。この文化統制は、あからさまな形をとることなく進行するだろう。軍国主義下の翼賛体制のように強制されることもなく、自覚さえなしに、みんなが転向するのだ。 |
音の静寂静寂の音(2000) 高橋悠治
1 いまここに立つ
〔・・・〕
東京に暮していて 音楽を語ることはない
こんなにたくさんの音楽家がいて
音楽することに何の意味があるのか
だれも知らない
それとも言いたくないのか
かつてはみんなが貧しかった時代があった
そのとき音楽することにはたしかに意味があった
それは何だったのか
かつての仲間たちが功績をたたえられ
賞をやりとりしむなしい誉めことばに囲まれて
慣れた手つきで次々に手繰り出す音楽の
なにものも究めず学ぼうともしない姿勢
没落する経済と老化する社会の現実をよそに
国家支配の小道具である近代オーケストラと
資本主義の繁栄のしるしであるグランドオペラに魅入られて
若い音楽家たちとなら
いっしょに音楽することができると思ったのも
幻想に過ぎなかった
若いのは外見だけでほとんどは
いまなおヨーロッパの規範に追随して技術をみがき
洗練されたうつろな響を
特殊奏法やめずらしい音色や道化芝居でかざりたてて
利益と地位だけが目当てのものたちばかりだった
いまコンサート会場に音楽はない
きそいあう技術や書法や確信にみちた態度
持てるものがもっと持ちたいという欲望
そのための神経症的な努力
◼️記憶と夢のあいだ 高橋悠治 水牛だより 2009年10月 |
国家主義と古典主義はおなじ側にある 規律や構成のように外部的で静的なバランスにもとづく管理 記号や表象の操作 内面化した自己規制 全体が矛盾なく たった一つの原理あるいはたった一つの構成要素から説明できると考える超合理主義 複雑性やあいまい な状態をデジタルな二分法で還元すること 方法主義 そうしたやりかたで裏打ちされ た「新しい」単純性 これが 1930 年代以来の現代音楽の病気だった |
◼️掠れ書き25 ピアノを弾くこと 高橋悠治 水牛だより 2013年2月 |
ピアノ練習には音はあまり必要ない。聞くことに連動する身体のうごきを意識すればよいのだから。次の音の位置にあらかじめ手があるように、見ないでその位置を感じ、それからそれを音にする、そしてそこから離れる、それをグループごとに沈黙で区切りながらためしてみる、それだけのこと。音はすでに記憶だから、音のイメージはあり、じっさいの音にすこしさきだってあり、音をみちびいていく。知覚は感覚に約半秒遅れて起こるといわれるが、イメージは音を作る身体運動の半秒先を行くように思われる。それが楽譜を読む眼のうごきでもあり、初見の方法でもある。 |
音のイメージとじっさいの音との落差あるいは乖離は知覚の時差がある限りなくならない。音には思い通りに操作できない部分が残る。それは偶然でもあり時間を遡って修正することはできないから、それに応じて次の音のイメージが修正され、さらなる乖離が続く。完全な方法はありえない。 演奏は不安定なもので、いままで書いたこともガイドラインにすぎないし、それだって保証されたものではない。 それなのに、確信をもっていつも同じ演奏をくりかえす演奏家がいる。この確信は現実の音を聞くことを妨げる障害になるのではないかと思うが、 感性のにぶさと同時に芸の傲慢さをしめしているのだろう。演奏が商品でありスポーツ化している時代には、演奏家の生命は短い。市場に使い捨てられないためには、いつも成長や拡大を求められているストレスがあるのかもしれない。 |