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2022年10月27日木曜日

大学人は不可視の行政機関の音楽に踊る奴隷

 1929年の世界恐慌から現在のウクライナ紛争までの概観」で記したことは、市場原理主義、新自由主義批判であって、簡単に言えば高橋悠治が次に言ってるようなことだよ。


高橋悠治)あらゆる科学だろうと哲学だろうと結局取引関係にいくわけじゃないですか、だから取引関係に基づいて科学も経済もすべてができている。これこそ問題じゃないですか?〔・・・〕


でもそのね、すべてがビジネスにもとづいているということがますますはっきりしてきたというのは、ひとつの文明の衰えていく過程で露になってきた、そういう事実。言葉があれだけど。


つまり、文明が盛んなときは別に取引だろうがなんだろうが、そういうことはいわなかったし、それで成り立ってたわけですよ。それで、今すべてがビジネスだというようなことになったときに、そこから何か生まれてくるということはこれ以上ない。儲かる人は儲かるし、力のある人はもっと力があるし、そういうようなことでしかないわけでしょ。


そうすると、そういうことをいくら批判したって始まらないわけだから、どういうふうに違うものがあるかということになりますね。(高橋悠治×茂木健一郎 「他者の痛みを感じられるか」2005年)


冷戦終焉後に学んだ者たちは、新自由主義世代であり、学者たちも例えば科研費獲得のために、新自由主義の奴隷、政治や官僚の采配の囚人になっている。これが現代ラカン派においても代表的な観点だ。私の言っていることはシニカルにきこえるかも知れないが、学者たちが政治への批判精神の喪ったのは、あくまでも構造の問題であり、この今、新自由主義イデオロギーに対して闘争するつもりのない者は、親米派に限らず、反米派もダメだね。親露派親中派もおバカなヤツがほとんどであり、この観点からは強い批判の対象だ。



それほど昔のことではない、支配的ナラティヴは少なくとも四種類の言説のあいだの相互作用を基盤としていたのは。それは、政治的言説・宗教的言説・経済的言説・文化的言説であり、その中でも政治的言説と宗教的言説の相が最も重要だった。現在、これらは殆ど消滅してしまった。政治家はお笑い芸人のネタである。宗教は性的虐待や自爆テロのイメージを呼び起こす。文化に関しては、人はみな芸術家となった。唯一残っている支配的言説は経済的言説である[There is only one dominant discourse still standing, namely the economic]。われわれは新自由主義社会に生きている。そこでは全世界がひとつの大きな市場であり、すべてが生産物となる。さらにこの社会はいわゆる実力主義に結びついている。人はみな自分の成功と失敗に責任がある。独力で出世するという神話。あなたが成功したら自分自身に感謝し、失敗したら自分自身を責める。そして最も重要な規範は、利益・マネーである。何をするにもカネをもたらさねばならない。これが新自由主義社会のメッセージである。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, Higher education in times of neoliberalism, November 2015)



ーーラカンにおける言説とは、フーコーの言説とは異なり、社会的結びつき[lien social]を意味する、《言説とは何か? それは、言語の存在を通して起こりうる秩序において、社会的結びつきの機能を作り上げるものである[Le discours c’est quoi ? C’est ce qui, dans l’ordre… dans l’ordonnance de ce qui peut se produire par l’existence du langage, fait fonction de lien social. ]》(Lacan à l’Université de Milan le 12 mai 1972)。


つまり新自由主義の時代は経済的言説のみ、とは経済的結びつきしかないということであり、これは高橋悠治の言っていることと等価。ラカンはこの経済的言説の支配の時代を「資本の言説」という言い方で表現したーーー《危機は、主人の言説ではなく、資本の言説である。それは、主人の言説の代替であり、今、開かれている [la crise, non pas du discours du maître, mais du discours capitaliste, qui en est le substitut, est ouverte.  ]》(Lacan, Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972)




私のテーゼは、ほとんどの大学は新自由主義的言説の餌食になっているということだ。これは大学にとっても社会にとっても悪である。大学にとって悪なのは、創造性と批評精神を崩壊させるから。社会にとって悪なのは、学生に新自由主義のアイデンティティを書き込むから。

It is my thesis that most universities have fallen prey to the neoliberal discourse as well, and that this is bad both for the universities and for society. It is bad for the university because it destroys creativity and critical thinking. It is bad for society because it endorses a neoliberal identity in students.  〔・・・〕


より高度な教育にとっての機関の現代的使命言説は「生産性」「競争性」「革新」「成長」「アウトプット資金調達」「コアビジネス」「投資」「ベンチマーキング」等々である。これらの中いくつかの表現はかつての時代の、例えば「多様性と尊敬の育成」、「精神の修養」等を指し示しているかに見える。だが欺かれてはならない。これは単に粉飾に過ぎない。新しい言説の核心は経済である。

The contemporary mission statements of institutions for higher education are crammed with expressions such as ‘productivity', ‘competitiveness', ‘innovation', ‘growth', ‘output financing', ‘core business', ‘stakeholders', ‘bench marking' etcetera. Some expressions in these mission statements refer to former times – e.g. ‘fostering diversity and respect', and ‘cultivating the mind' – but don't let that mislead you, this is just window dressing. The core of the new narrative is economic.  〔・・・〕


長いあいだ、大学は自身の小宇宙のなかの静的な社会だった。〔・・・〕しかし、状況は劇的に変貌した。大学人は不可視の行政機関の音楽に踊ることを余儀なくされている。

For a long time, universities were static societies in their own microcosm (…) however, this situation changed dramatically, …they are compelled to dance to the music of an invisible administration.

(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities, 2013)



ほとんどの学者ってのはもはや主流メディアと一緒だ。ウクライナ紛争での国際政治学者集団においてそれが最も鮮明化された。あの連中は、大本営発表の防衛省あるいはその研究機関の輩と同じことばかり言っている。


大多数の「ジャーナリスト」は、自分のキャリアや生活が突然行き詰まらないように、国家が流す嘘や誤報を文句も言わずにただただ垂れ流している。

The vast majority of “journalists” simply churn out lies and misinformation handed down by the state without complaint, lest their careers and livelihood arrive at a sudden dead end.   (Fake News, Fake Putin Nuclear Threat, Kurt Nimmo Oct 24 2022)