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2022年10月25日火曜日

1929年の世界恐慌から現在のウクライナ紛争までの概観


いままで繰り返して記してきたことだが、ここでいくらか概観しよう。

まず世界資本主義の危機から1930年以降、ファシズム・共産主義・ケインズ主義が生まれた。そして戦後体制つまり冷戦体制は、共産主義とケインズ主義体制である。

もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)



ファシズムと共産主義はどちらも民主主義的である。

民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)


ーーこの柄谷はシュミットに依拠している。

ボルシェヴィズム(共産主義)とファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない。民主主義の歴史には多くの独裁制があった。Bolschewismus und Fascismus dagegen sind wie jede Diktatur zwar antiliberal, aber nicht notwendig antidemokratisch. In der Geschichte der Demokratie gibt es manche Diktaturen, (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)

民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異質な者や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)




シュミットの友敵理念の観点からは、敵とは異質な者であるが、悪である必要はまったくない。

政治的な行動や動機の基因と考えられる、特殊政治的な区別とは、友と敵という区別である[Die spezifisch politische Unterscheidung, auf welche sich die politischen Handlungen und Motive zurückführen lassen, ist die Unterscheidung von Freund und Feind]〔・・・〕

政治上の敵が道徳的に悪である必要はなく、美的に醜悪である必要はない。経済上の競争者として登場するとはかぎらず、敵と取引きするのが有利だと思われることさえ、おそらくはありうる。敵とは、他者・異質な者にほかならず、その本質は、とくに強い意味で、存在的に、他者・異質な者であるということだけで足りる[Der politische Feind braucht nicht moralisch böse, er braucht nicht ästhetisch hässlich zu sein. Er ist eben der andere, der Fremde, und es genügt zu seinem Wesen, dass er in einem besonders intensiven Sinne existentiell etwas anderes und Fremdes ist. ](カール・シュミット『政治的なものの概念』1932年)


場合によっては敵なる異質な者を作り出すのが民主主義であり、ーー《もしユダヤ人が存在しないとすれば、反ユダヤ主義者はユダヤ人を発明するだろう[si le Juif n'existait pas, l'antisémite l'inventerait.]》(サルトル『ユダヤ人問題についての考察』1946年)ーー、その敵を支点として集団は結束(ファスケス)化ーーつまりファシズム化ーーする。


指導者や指導的理念が、いわゆるネガティヴの場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こしうる。Der Führer oder die führende Idee könnten auch sozusagen negativ werden; der Haß gegen eine bestimmte Person oder Institution könnte ebenso einigend wirken und ähnliche Gefühlsbindungen hervorrufen wie die positive Anhänglichkeit. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章、1921年)



民主主義が国家あるいは共同体の同質性を目指す異質な者の排除主義であるなら、ーーこれはアテネのデモクラシーに端的に現れている、その奴隷の排除に支えられた社会、さらには共同体の規範に反するソクラテスの死刑ーー、現代における自由主義とは何よりもまず資本の自由主義である。


人々は自由・民主主義が勝利したといっている。しかし、自由主義や民主主義を、資本主義から切り離して思想的原理として扱うことはできない。いうまでもないが、「自由」と「自由主義」は違う。後者は、資本主義の市場原理と不可分離である。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)

自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』2000年)




さて冷戦終焉に伴い、共産主義だけでなくケインズ主義は事実上終わった。


ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。

今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない。(中井久夫「私の「今」」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)



「資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力」とは、セーフティネット等の政府介入である。

浅田:資本主義がなぜこうしてサヴァイヴしえたかと言えば、社会主義なりファシズムなりと対立しつつ学習したからです。ケインズにしても、社会主義に勝つためには政府介入とセーフティ・ネットが必要であると言い、それを実践した。日本でも、マルクスを体系化した宇野経済学を学び、資本主義の矛盾を熟知した官僚や政治家、あるいは経営者たちが、そういうことをやってきた。資本主義というのはたえず危機をはらんだシステムであり、蓮實さんの言われる本当の資本家というのは、敵と闘いながら学ぶべきは学んで自己修正し危機管理にあたる人なんですね。(「対談「「空白の時代」以後の二〇年」蓮實重彦+浅田彰、中央公論2010年1月号)



冷戦終焉後、「むき出しの市場原理に対する「抑止力」がなくなった」とは、裸のままの新自由主義の時代になった、つまり事実上世界資本主義の時代に戻ったということである。



今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年)

「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009年)



柄谷の『世界史の構造』で示された図であるならば、1930年から1990年までの世界のヘゲモニー国家は米国だが、冷戦終焉とともに米国は覇権を失った。




覇権を失ったにもかかわらず、1990年以降も覇権主義的に振る舞っているのが、現在の米国であり、その実態は剥き出しの市場原理としての赤裸々な世界資本主義的な様相を示している。米国の公式政策新保守主義(ネオコン)の実態は、実際はこの世界資本主義に他ならない[参照]。


裸のままの世界資本主義の時代とは、ベンサム主義、搾取主義ーー他人を害することによって自分を利する(人間による人間の搾取) ーーの時代である。


◼️資本制生産様式におけるベンサム主義の必然性

(資本制生産様式において)労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の領域は、実際、天賦人権の真の楽園であった。

ここで支配しているのは、自由、平等、所有、およびベンサムだけである[Was allein hier herrscht, ist Freiheit, Gleichheit, Eigentum und Bentham.]


自由! なぜなら、商品──例えば労働力──の買い手と売り手は、彼らの自由意志によってのみ規定されているのだから。彼らは、自由で法的に同じ身分の人格として契約する。契約は、彼らの意志に共通な法的表現を与えるそれの最終成果である。


平等! なぜなら彼らは商品所有者としてのみ相互に関係し、 等価物を等価物と交換するのだから。


所有! なぜなら誰もみな、 自分のものだけを自由に処分するのだから。

ベンサム! なぜなら双方のいずれにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。彼らを結びつけて一つの関係のなかに置く唯一の力は、彼らの自己利益、彼らの特別利得、彼らの私益という力だけである。

Bentham! Denn jedem von den beiden ist es nur um sich zu tun. Die einzige Macht, die sie zusammen und in ein Verhältnis bringt, ist die ihres Eigennutzes, ihres Sondervorteils, ihrer Privatinteressen. (マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化 Die Verwandlung von Geld in Kapital」1867年)


功利理論[Nützlichkeitstheorie」においては、これらの大きな諸関係にたいする個々人の地位、個々の個人による目前の世界の私的搾取[Privat-Exploitation]以外には、いかなる思弁の分野も残っていなかった。この分野についてベンサムとその学派は長い道徳的省察をやった。(マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」1846年)

言語における仮面が唯一意味をもつのは、無意識的あるいは、実際の仮面の故意の表出のときのみである。この場合、功利関係はきわめて決定的な意味をもっている。すなわち、私は他人を害することによって自分を利する(人間による人間の搾取) ということである。

Die Maskerade in der Sprache hat nur dann einen Sinn, wenn sie der unbewußte oder bewußte Ausdruck einer wirklichen Maskerade ist. In diesem Falle hat das Nützlichkeitsverhältnis einen ganz bestimmten Sinn, nämlich den, daß ich mir dadurch nütze, daß ich einem Andern Abbruch tue (exploitation de l'homme par l'homme <Ausbeutung des Menschen durch den Menschen>); (マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」1845-1846 年)

この相互搾取理論は,ベンサムがうんざりするほど詳論したものだ[Wie sehr diese Theorie der wechselseitigen Exploitation, die Bentham bis zum Überdruß ausführte, ](マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」 1846年)


仮に意識的にはそれを知らなくても、資本主義国民は無意識的にベンサム主義者になるーー《彼らはそれを知らないが、そうする[ Sie wissen das nicht, aber sie tun es]》(マルクス『資本論』第1巻「一般的価値形態から貨幣形態への移行」)


別の言い方なら「後は野となれ山となれ!」主義である。


“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”(後は野となれ山となれ!)、これがすべての資本家およびすべての資本主義国民のスローガンである[Après moi le déluge! ist der Wahlruf jedes Kapitalisten und jeder Kapitalistennation. ](マルクス『資本論』第1巻「絶対的剰余価値の生産」)




現在、何よりも重要なのは世界資本主義分析かつそこから逃れる政治形態を模索することである。

マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(ドゥルーズ「思い出すこと」インタビュー1993年)

M-M' (G - G′ )において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 》(マルクス『資本論』第三巻第二十四節)である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、私訳)





世界資本主義における政体の典型は資本フェティッシュに囚われた政治主体である。


利子生み資本では、自動的フェティッシュ[automatische Fetisch]、自己増殖する価値 、貨幣を生む貨幣[selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld]が完成されている。〔・・・〕

ここでは資本のフェティッシュな姿態[Fetischgestalt] と資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が G - G′ で持つのは、資本の中身なき形態 [die begriffslose Form des Kapitals]、生産諸関係の至高の倒錯と物件化[Verkehrung und Versachlichung]、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能[Fähigkeit des Geldes, resp. der Ware, ihren eignen Wert zu verwerten, unabhängig von der Reproduktion]ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化[Kapitalmystifikation]である。(マルクス『資本論』第三巻第二十四節 )



例えば米国のディープステート(闇の国家)の悪とされるものは実際は単なる官産複合体における資本フェティッシュの悪に他ならない。その代表的なものが軍産複合体であり、この今、ウクライナ紛争を契機にその資本フェティッシュの悪が赤裸々に顕現している。


※参照➡︎ 「官産複合体なる闇の国家


より露骨な言い方ならば、米国は資本フェティッシュの効果としての「戦争機械」である[参照]。


問題は、戦争機械がいかに戦争を現実化するかということよりも、国家装置がいかに戦争を所有(盗用)するかということである [La question est donc moins celle de la réalisation de la guerre que de l'appropriation de la machine de guerre. C'est en même temps que l'appareil d'Etat s’approprie la machine de guerre]〔・・・〕

国家戦争を総力戦にする要因は資本主義と密接に関係している「les facteurs qui font de la guerre d'Etat une guerre totale sont étroitement liés au capitalisme ]。

現在の状況は絶望的である。世界的規模の戦争機械がまるでS Fのようにますます強力に構成されている[Sans doute la situation actuelle est-elle désespérante. On a vu la machine de guerre mondiale se constituer de plus en plus fort, comme dans un récit de science-fiction ;](ドゥルーズ &ガタリ『千のプラトー』「遊牧論あるいは戦争機械』1980年)



以上が基本的な概観であり、見解の多様なヴァリエーションがあるのを知らないわけではないが、ベースはこの観点に帰結すると私は考えている。


………………

なお柄谷は次のように言っていることを付け加えておこう。


世界の現状は、米国の凋落でヘゲモニー国家不在となっており、次のヘゲモニーを握るために主要国が帝国主義的経済政策で競っている。日清戦争後の国際情勢の反復ともいえる。新たなヘゲモニー国家は、これまでのヘゲモニー国家を引き継ぐ要素が必要で、この点で中国は不適格。私はインドがヘゲモニーを握る可能性もあると思う。その段階で、世界戦争が起こる可能性もあります。(柄谷行人『知の現在と未来』岩波書店百周年記念シンポジウム、2013年11月23日)



ウクライナにおける米主導のNATOとロシアとのあいだの代理戦争後、台湾問題を契機に米中戦争が起こり両国が疲弊するなら、このインドのそうそうの浮上はいっそう可能性が高まるだろう。