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2022年10月14日金曜日

戦争は性欲動に対する最後の昇華

 戦争は欠かせないだよ、昔から、この今も、そして未来も止まないね(人がしばしば言及する、フロイトのアインシュタインとの往復書簡『ヒトはなぜ戦争をするのか? 』(1932年)にいくらか反して言うが。あの記述はフロイトの表向きの、モラリストの顔の部分があり、とくに真の欲動理論におけるフロイトはああではない[参照])。

現在の真の不幸は核兵器や生物兵器が開発されて、マジで戦争やったら人類が滅亡してしまうことだが。


戦争は不可欠[Der Krieg unentbehrlich]


人類が戦争することを忘れてしまった時に、人類からなお多くのことを(あるいは、その時はじめて多くのことを)期待するなどということは、むなしい夢想であり、おめでたい話だ[eitel Schwärmerei und Schönseelentum]。あの野営をするときの荒々しいエネルギー、あの深い非個人的な憎悪、良心の苛責をともなわないあの殺人の冷血[jene Mörder-Kaltblütigkeit mit gutem Gewissen]、敵を絶滅しようというあの共通な組織的熱情[jene gemeinsame organisierende Glut in der Vernichtung des Feindes], 大きな損失や自分ならびに親しい人々の生死などを問題にしないあの誇らかな無関心[jene stolze Gleichgültigkeit gegen große Verluste, gegen das eigene Dasein und das der Befreundeten]、あの重苦しい地震のような魂の震憾[jenes dumpfe erdbebenhafte Erschüttern der Seele]などを、すべての大きな戦争があたえるほど強く確実に、だらけた民族にあたえられそうな方法は、さしあたり、ほかには見つからない。

もちろん、ここで氾濫する河川は、石やあらゆる種類の汚物を押し流して、微妙な文化の沃野を荒すけれど、後日、事情が好転すれば、この河川の力によって、精神の仕事場の歯車が新しい力でまわされることになる。文化は激情や悪徳や悪事をどうしても欠くことはできないのだ[Die Kultur kann die Leidenschaften, Laster und Bosheiten durchaus nicht entbehren]。


帝政時代のローマ人がいくらか戦争に倦いてきたとき、彼らは、狩猟や剣士の試合やキリスト教徒の迫害によって、新しい力を獲得しようとこころみたものだった。大体においてやはり戦争を放棄したように見える現在のイギリス人は、あの消滅してゆく活力をあらたにつくり出すために、別の手段を取っている。 あの危険な探険旅行とか遠洋航海とか登山とかは、科学上の目的からくわだてられるものと言われているが、その実、あらゆる種類の冒険や危険から、余分の力を持って帰ろうというのだ。

人間はまだまだ戦争の代用物[Surrogate des Krieges]をいろいろ考え出すことだろうが、現今のヨーロッパ人のように高度の文化を持った、したがって必然的に無気力な人類は、文化の手段のために、自分たちの文化と自分たちの存在そのものを失わないためには、戦争どころか、最も大きい、最もおそろしい戦争――すなわち、野蛮状態への一時的復帰を[zeitweiliger Rückfälle in die Barbare]ーー必要とするということがむしろこの代用物によって、かえってはっきりわかるようになることだろう。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』上  477番、1878年)



上品な美などだけじゃ物足りないとなったら人は戦争やるのさ



すべての美は生殖を刺激する、ーーこれこそが、最も官能的なものから最も精神的なものにいたるまで、美の作用の特質である[daß alle Schönheit zur Zeugung reize - daß dies gerade das proprium ihrer Wirkung sei, vom Sinnlichsten bis hinauf ins Geistigste... ](ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」22節『偶像の黄昏』1888年)

これまでのところ、人間の最高の祝祭は生殖と死であるに違いない[So weit soll es kommen, daß die obersten Feste des Menschen die Zeugung und der Tod sind!  ](ニーチェ遺稿137番、1882 - Frühjahr 1887)



戦争は性欲動の昇華形態のひとつだろうがね、ギリギリのところでの。つまり知や愛や芸術、さらには美よりもずっと性欲動に近似した最後の昇華だろうよ。


『戦争と平和』のアンドレイ・ボルコンスキイは、身重の妻リーザと社交生活にウンザリして戦争に出る。アウシュビッツの戦いで総司令官クトゥーゾフの傍にいた彼は、敵に掠奪されそうになった軍旗を取り戻そうとして馬を駆り、ぶっ倒れて高い空を見上げるーー《なにも見えなかった。彼の頭上には高い空ーー晴れ渡ってはいないが、それでも測り知ることのできないほど高い空と、その面をはってゆく灰色の雲のほか何もない。『なんという静かな、穏やかな、 崇厳なことだろう。俺が走っていたのとはまるっきりべつだ。』とアンドレイ公爵は考えた。 『われわれが走ったり、 わめいたり、争っまるっきりべつだ。》ーー、この空は帰っていくところだ、どこへ? さあてっと。《空の青さをみつめていると/私に帰るところがあるような気がする》(谷川俊太郎「六十二のソネット」41)


俗世に戻ったら妻が産褥熱で死んでしまう瞬間に遭遇する。その後抑鬱期を経て輝かしい笑い声をした少女ナターシャに愉楽村〔オトラードノエ〕の並木道で出会い、新しい人生の始まりがある。ナターシャに惚れ込んで婚約するようになるが、父ボルゴンスキー公爵に1年の猶予期間を命令され海外で暮らす。その間にナターシャに心変わりされてまた戦争にでる。今度は致死的重症を被り、紆余曲折を経てモスクワのナターシャ宅に身を寄せる偶然が訪れる。そしてナターシャに介護されつつ死ぬ。


人生はこの繰り返しだよ、女に惚れ女にウンザリしてまた女に惚れる。最後はもし幸運なら女にーー母なる大地にーー抱かれて死ぬ(フロイトにとって母なる大地[Mutter Erde]とは沈黙の死の女神[schweigsame Todesgöttin]である[参照])。


なぜ満足しないのか、ひとりの女だけに? 《ある人へのもっとも排他的な愛は、常になにか他のものへの愛である。L’amour le plus exclusif pour une personne est toujours l'amour d’autre chose 》(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)



ニーチェはこう言ってる。


プラトンは考えた、知への愛と哲学は昇華された性欲動だと[Platon meint, die Liebe zur Erkenntniß und Philosophie sei ein sublimirter Geschlechtstrieb](ニーチェ断章 (KSA 9, 486) 1880–1882)

性欲動の発展としての同情と人類愛。復讐欲動の発展としての正義[Mitleid und Liebe zur Menschheit als Entwicklung des Geschlechtstriebes. Gerechtigkeit als Entwicklung des Rachetriebes. ](ニーチェ「力への意志」遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )

芸術や美へのあこがれは、性欲動の歓喜の間接的なあこがれである[Das Verlangen nach Kunst und Schönheit ist ein indirektes Verlangen nach den Entzückungen des Geschlechtstriebes ](ニーチェ遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )


今回の戦争に興奮している女性をときに見かけるが、実際のところ、あれは性欲動の歓喜の代理満足のように見えないでもないねーー《リビドー興奮は圧縮と置換を通して代理満足となる[libidinösen Erregung …daß er durch Verdichtung und Verschiebung zum Befriedigungsersatz]》(フロイト『精神分析入門』第24章、1917年、摘要)。

こういうのを引用するとフェミニストのオネエサンたちが今どき古いフロイトを、と言うに決まってるのだが、そうではゼンゼンないんだよ。♂と♀の機能の違いを言ってるだけだ、そんなものは一朝一夕に変わる筈がない、古来から一緒だ。




破壊は唯一、愛の享楽の顔である[le ravage, c'est seulement la face de jouissance de l'amour](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme   18/3/98)

破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である。[Le terme de ravage,…– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré](J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)



フロイトを真に読み込めば、フロイトの表向きの顔である「欲動二元論」は、実は欲動一元論なのである。

実質的にすべての欲動は死の欲動である[toute pulsion est virtuellement pulsion de mort](Lacan, E848, 1966)

リビドーはそれ自体、死の欲動である[La libido est comme telle pulsion de mort](J.-A. Miller,  LES DIVINS DÉTAILS, 3 mai 1989)


フロイトの定義において、リビドー=愛の欲動=性欲動である。つまり愛の欲動は死の欲動であり、これが自己破壊欲動である。


これは既にニーチェに現れている。


愛への意志、それは死をも意志することである[ Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode](ニーチェ『ツァラトゥストラ』  第2部「無垢な認識」1884年)

より深い本能としての破壊への意志、自己破壊の本能、無への意志[der Wille zur Zerstörung als Wille eines noch tieferen Instinkts, des Instinkts der Selbstzerstörung, des Willens ins Nichts](ニーチェ遺稿、den 10. Juni 1887)



……………


ニーチェと同様、人間の全活動は性欲動の昇華だというのがフロイトラカンだ。昇華とはリビドーあるいは欲動の目標をずらせること。


エスのリビドーの脱性化あるいは昇華化 [die Libido des Es desexualisiert oder sublimiert ](フロイト『自我とエス』4章、1923年)

われわれの心的装置が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること、これによってわれわれの心的装置の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにする。この目的のためには、欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]が役立つ。

Eine andere Technik der Leidabwehr bedient sich der Libidoverschiebungen, welche unser seelischer Apparat gestattet, durch die seine Funktion so viel an Geschmeidigkeit gewinnt. Die zu lösende Aufgabe ist, die Triebziele solcherart zu verlegen, daß sie von der Versagung der Außenwelt nicht getroffen werden können. Die Sublimierung der Triebe leiht dazu ihre Hilfe.。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年)



もっとも究極的には昇華は不可能というのがフロイトだが。


抑圧された欲動は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。

Der verdrängte Trieb gibt es nie auf, nach seiner vollen Befriedigung zu streben, die in der Wiederholung eines primären Befriedigungserlebnisses bestünde; alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen sind ungenügend, um seine anhaltende Spannung aufzuheben, und aus der Differenz zwischen der gefundenen und der geforderten Befriedigungslust ergibt sich das treibende Moment, welches bei keiner der hergestellten Situationen zu verharren gestattet, sondern nach des Dichters Worten »ungebändigt immer vorwärts dringt« (Mephisto im Faust, I, Studierzimmer)

(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)


欲動、すなわちエスから生じる身体的要求だ。

エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年)



ここで女性に対して実にシツレイなフロイトの見解もついでに?掲げておこう、《我々はまた、女たちは男たちに比べ社会的関心に弱く、欲動昇華の能力が低いと見なしている。Wir sagen auch von den Frauen aus, daß ihre sozialen Interessen schwächer und ihre Fähigkeit zur Triebsublimierung geringer sind als die der Männer. 》(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)。



ラカンは昇華についてこう言っている。

ヒステリー ・強迫神経症・パラノイアは、芸術・宗教・科学の昇華の三様式である[l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science](ラカン、S7, 03  Février  1960)


別の言い方なら昇華とは防衛、欲動つまり享楽に対する防衛だ。


欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である[le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.]( Lacan, E825, 1960年)

美は、最後の防壁を構成する機能をもっている、最後のモノ、死に至るモノへの接近の前にある。この場に、死の欲動用語の下でのフロイトの思考が最後の入場をする。« la beauté » …a pour fonction de constituer le dernier barrage avant cet accès à la Chose dernière, à la Chose mortelle,  à ce point où est venue faire son dernier aveu  la méditation freudienne sous le terme de la pulsion de mort. (Lacan, S8, 23  Novembre 1960)


これは晩年のラカンにおいても同じであり、モノは現実界であり、死の欲動だ。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne (…) ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est  le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


死の欲動が性欲動であるのは前回見た通り。





ラカニアンの昇華の簡単版は次の通りであり、究極的には社会的結びつきーーこれがラカンの「言説」の定義ーーは、すべて性欲動としての「愛の欲動=死の欲動」に対する昇華である。


欲望は防衛である、欲望は享楽の現実界に対する防衛である[le désir est une défense, une défense contre le réel de la jouissance.](J.-A. Miller, Clinique ironique, 1993)

美は現実界に対する最後の防衛である[la beauté est la défense dernière contre le réel.](J.-A. Miller, L'inconscient et le corps parlant, 2014)

我々のすべての言説は現実界に対する防衛である[tous nos discours sont une défense contre le réel] (Anna Aromí, Xavier Esqué, XI Congreso, Barcelona 2-6 abril 2018)



・・・というわけで、人類は近いうちに滅びるだろうよ(?)、若い人はその前にせいぜいヤッとけよ、朝昼晩夜と手当たり次第にさ。


若かったら男だって1日10回はできるだろ、永遠不滅の女ほどじゃないにしろ。


女性たちは、世に行われている生活上の規則を拒んだって、少しも悪くはない。それは男どもが彼女たちに相談なしに作り上げたものであるから。彼女たちと我々との間には自ずと陰謀や喧嘩がある。我々と彼女たちとの最も親密な抱擁すら、なお雨風にみちみちている。しかるに、ウェルギリウスの説によると、我々は女性たちを不当に取扱っている。我々は、愛の営みにおいて、女の方が男よりもはるかに能力があり熱烈であることを知っているのに[plus ardentes et plus sensibles que nous aux effets de l'amour]。〔・・・〕


それにまた、この道の達者として有名なローマのある皇帝〔プロクルス〕およびある皇后〔メッサリナ〕が、それぞれの時代にこれに関して与えた証拠も聞いているのだ(この皇帝は一晩のうちに、そのとりことなったサルマティアの処女十人の蕾を散らした。ところが皇后の方は、実に一晩に、欲望と嗜好のおもむくままに、相手をかえつつ二十五回も行った)。〔・・・〕


以上のことを信じまた講釈しながら、われわれ男どもは、節制を婦人たちだけが負うべき務めとして強要する。しかも極刑をふりかざして!(モンテーニュ『エセー』第3部40-41節)


谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。(老子「道徳経」第六章「玄牝之門」)

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子「玄牝之門」福永光司訳)



重要なのは、もはや明日はないという感覚なんだが、現在の不幸はその感覚を抱く前に核や生物兵器で死んでいる可能性が高いことだな。


人間は、ぎりぎりの極限状態に置かれるとかえって生命力が亢進します。昨日を失い、明日はない。今の今しかない。時間の流れが止まった時こそ、人は永遠のものを求める。その時、人間同士の結びつきで一番確かなものは、ひょっとして性行為ではないのか。赤剝けになった心と心を重ね合わせるような、そんな欲求が生まれたんじゃないか。

一般的に、エロスとは性欲や快楽を指す言葉かもしれません。が、僕の追求するエロスは、そんな甘いものじゃない。人間が生きながらえるための根源的な欲求のことです(古井由吉「サライ」2011年3月号)


目一杯やらないうちに死んじまうなんて実に勿体無い人生だぜ。