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2022年10月14日金曜日

享楽は性欲動のこと

 


少し前にも記したが、ラカンの享楽はフロイトのリビドーであり、性欲動のことだよ。

享楽の名は、リビドーというフロイト用語と等価である[le nom de jouissance, … le terme freudien de libido …faire équivaloir. ](J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 -30/01/2008)

リビドー[Libido]は情動理論 Affektivitätslehre]から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーと呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。〔・・・〕

哲学者プラトンの「エロス」は、その由来や作用や性愛[Geschlechtsliebe]との関係の点で精神分析でいう愛の力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。〔・・・〕

この愛の欲動[Liebestriebe]を精神分析では、その主要特徴からみてまたその起源からみて性欲動[Sexualtriebe]と名づける。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)


何よりもまず「リビドー=性欲動」がイマジネールなものであるわけないだろ。


で、この享楽のリビドー(欲動の現実界)は穴に関わる。


享楽は、抹消として、穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられない[ La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou] (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)



穴というのはトラウマのことであり、トラウマとは喪失のこと[もういくらか詳しくは➡︎ 「享楽は去勢喪失トラウマ固着」)



現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

享楽の喪失がある[il y a déperdition de jouissance](Lacan, S17, 14 Janvier 1970

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)



この喪失、この喪われた対象としてのモノが現実界であり、母なるモノだ。

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne (…) ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.(Lacan, S7, 16  Décembre  1959


喪われた母なるモノは、事実上、母の身体であり、究極的には母胎だ。

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère, (Lacan, S7, 20  Janvier  1960 )

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象の象徴である[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964


したがって原点にある享楽の対象(リビドーの対象)は、フロイトの次の三つの表現に収斂する。

母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926)

母の喪失のトラウマ的状況 Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter (フロイト『制止、症状、不安』第11C1926年)


これがフロイトラカンにおける究極の性欲動(リビドー)の対象だよ。こうして初めて愛の欲動が死の欲動であることがわかる[参照]。


今は簡単に書いたが、これが間違っているというラカニアンがいたら徹底的に勝負してもいいがね。だいたい日本的ラカン派は、まともに享楽という語を定義しないまま曖昧に使い続けている。最近でも剰余享楽社会論に過ぎないのに「享楽社会論」とかね。


剰余享楽は言説の効果の下での享楽の廃棄の機能である[Le plus-de-jouir est fonction de la renonciation à la jouissance sous l'effet du discours. ](Lacan, S16, 13  Novembre  1968)

剰余享楽は既に享楽の亡霊である。シニフィアンの形式の上での享楽の形式化である[c’est un plus-de-jouir qui est déjà un dégradé de la jouissance, un modelage de la jouissance sur le modèle du signifiant.](J.-A. MILLER「ヘイビアス・コーパス(Habeas corpus)」2016)


あんなの「享楽亡霊社会論」にすぎないよ。