前回最後に引用したクリスティヴァの「言語はフェティッシュ」は奇妙な見解ではまったくない。 |
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しかし言語自体が、我々の究極的かつ分離し難いフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシスト的否認を基盤としている(「私はそれをよく知っているが、同じものとして扱う」「記号は物ではないが、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、話す存在の本質としての私たちを定義する。 Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? Lui qui précisément repose sur le déni fétichiste ("je sais bien mais quand même", "le signe n'est pas la chose mais quand même", …) nous définit dans notre essence d'être parlant.(ジュリア・クリスティヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980) |
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これは事実上、ラカンが既に言ってる。そもそも彼女は1970年代、熱心なラカンのセミネールの聴講者だった。 |
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たとえばラカンはこう言っている。 |
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言説とは何か? それは、言語の存在を通して起こりうる秩序において、社会的結びつきの機能を作り上げるものである。[Le discours c’est quoi ? C’est ce qui, dans l’ordre… dans l’ordonnance de ce qui peut se produire par l’existence du langage, fait fonction de lien social. ](Lacan à l’Université de Milan le 12 mai 1972) |
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そして、この言語を通して社会的的結びつきとしての言説は見せかけだ、と。 |
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言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972) |
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見せかけは、《フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche]》(J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)だ。 |
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そもそもラカンの剰余享楽としての対象aは、フェティッシュであり、マルクスの剰余価値だ。 |
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私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年) |
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剰余価値、それはマルクス的快、マルクスの剰余享楽である[ La Mehrwert, c'est la Marxlust, le plus-de-jouir de Marx. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970) |
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この意味では、ラカンの言説理論は四つのフェティシュだ。原点はマルクスにあり、古典的な見解とさえ言える。
人はみな、四つのフェティッシュのうちのどれかのフェティッシュやってんだよ。これは言語を使用している限り避けがたい。重要なのはそれに自覚的であるかどうかだ。 |