このブログを検索

2022年11月7日月曜日

共産主義は「自由平等平和」主義のことである

 

共産主義は「自由平等平和」主義だよ。フランス革命の理念、自由、平等、友愛[ Liberté, Égalité, Fraternité ]主義だ。

ソ連や日本共産党のたぐいは本来の共産主義ではまったくない。あれはせいぜい一国社会主義だ。


少なくとも1990年以降の柄谷行人は、この「自由平等平和」のありうる社会形態を模索し続けている思想家だ。


前回引用したように、柄谷は交換様式Dと「原遊動性、普遍宗教、共産主義」を結びつけている。


・遊動的バンドは、狩猟のために必要な規模以上には大きくならず、また小さくもならなかった。集団の成員を縛る拘束もなかった。 他の集団と出会ったときも、簡単な交換をしただろうが、戦争にはならなかった。このような状態を、私は原遊動性 U と名づけます。 〔・・・〕D は A の回帰ではなく、Uの回帰です。

・D は普遍宗教です。

・「共産主義」は、それが D であるかぎり、歴史的に必然的なのです。(  柄谷行人「交換様式論入門」2017年)



つまり交換様式Dとは共産主義だ。人が共に生み出すべき自由平等平和主義だ。




Dのアソシエーション、これがマルクスの共産主義だ。


一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


自由でアソシエートした労働への変容[freien und assoziierten Arbeit verwandelt]〔・・・〕

もし協同組合的生産 [genossenschaftliche Produktion]が欺瞞やわなにとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義制度[kapitalistische System] にとってかわるべきものとすれば、もし連合した協同組合組織諸団体 [Gesamtheit der Genossenschaften] が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断のアナーキー [beständigen Anarchie]と周期的変動 [periodisch wiederkehrenden Konvulsionen]を終えさせるとすれば、諸君、それはコミュニズム、可能なるコミュニズム [„unmögliche“ Kommunismus]以外の何であろう。(マルクス『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』1891年)



「共産主義」というシニフィアンに対して寝言を言ってたらダメだよ。共産主義とは自由平等平和という世界史的理念のことだ。


柄谷が多用しているラカンのボロメオの環の後期版に代入すれば、アソシエーションとしての共産主義Dは次のポジションだ。



ただしフロイトラカンの思考の下では、回帰するのはAとCの重なり目箇所であり、D自体は回帰しない。Dは発明しなければならない。そこが柄谷の思考とは若干異なる。



ネグリは最近ようやくマルチチュード概念の浅はかさに気づいて、コモンティスモに転回している。


マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと解消する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。(…)multitudo 概念を強調して使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、マルチチュードmultitudoとコモンcomunis 概念を推敲するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(…)スピノザの教えにおいて、単独性からコモンsingularity to the commonへの移行において決定的なことは、想像力・愛・主体性である。新しく発明された制度newly invented institutionsへと自らを移行させる単独性と主体性は、コモンティスモ commontismoを要約する一つの方法である。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)


なぜ我々はこれをコミュニズムと呼ばないのか。おそらくコミュニズムという語は、最近の歴史において、あまりにもひどく誤用されてしまったからだ。(…だが)私は疑いを持ったことがない、いつの日か、我々はコモンの政治的プロジェクトをふたたびコミュニズムと呼ぶだろうことを[I have no doubt that one day we will call the political project of the common ‘communism' again]。だがそう呼ぶかどうかは人々しだいだ。我々しだいではない。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)