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2022年12月22日木曜日

中井久夫の「トラウマ研究」のいくつか


トラウマ研究は麗々しくやるものとは絶対に違うと思います。地下水脈のようにーーと私は思っています。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」2001年『徴候・記憶・外傷』所収)




①視覚、聴覚、味覚、触覚、運動感覚、振動感覚の外傷性フラッシュバック

視覚の感受性、聴覚の感受性、嗅覚の感受性など、それぞれ作家には感度の鋭さや鈍さがあるだろう。どの作家に惹かれるのかは、これもまた読者の感受性による。たとえば谷崎潤一郎は触覚の作家だろう。一般に視覚の作家が愛でられることの多いのは、読み手も視覚の感受性が他の感受性に比べて際立つひとが多いせいではないか。


成人世界に持ち込まれる幼児体験は視覚映像が多く、稀にステロタイプで無害な聴覚映像がまじる。嗅覚、味覚、触覚、運動覚、振動感覚などはほとんどすべて消去されるのであろうか。いやむしろ、漠然とした綜合感覚、特に母親に抱かれた抱擁感に乳の味覚や流れ入る喉頭感覚、乳頭の口唇触覚、抱っこにおける運動感覚、振動感覚などが加わって、バリントのいう調和的渾然体 harmonious mix-up の感覚的基礎となって、個々の感覚性を失い、たいていは「快」に属する一つの共通感覚となって、生きる感覚(エロス)となり、思春期を準備するのではなかろうか。


これに対して、外傷性体験の記憶は「成人世界の幼児型記憶」とはインパクトの点で大きく異なる。外傷性記憶においては視覚の優位重要性はそれほど大きくない。外傷性記憶は状況次第であるが、一般に視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。視覚的映像も、しばしば、混乱したものである。すなわち「共通感覚的」であり「原始感覚的」でもある。(中井久夫「発達的記憶論ーー外傷性記憶の位置づけを考えつつ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


ここで、視覚だけでなく、聴覚、味覚、運動感覚、振動感覚も外傷性フラッシュバックを起こすことを強調しておきたい。振動感覚にかんしては、暗い中でにわかにゆさぶりをかけられた阪神・淡路大震災に際して多くの人に実際起こったことである。 特に、 記念日現象 anniversary phenomenon として、 一周年にあたる一九九六年一月一七日前後の一週間に、いちじるしい振動感覚への過敏性がみられた。(中井久夫「発達的記憶論ーー外傷性記憶の位置づけを考えつつ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)




②外傷性フラッシュバックと幼児型記憶の類似性、そして異物

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



※1、トラウマ=異物(異者としての身体)のレミニサンス

トラウマないしはトラウマの記憶は、異物=異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)



※2、現実界=トラウマ=レミニサンス

私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)




※3、現実界=モノ=異者(異者としての身体)=エスの欲動蠢動

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)





 外傷性記憶の特徴

外傷性記憶は、一般に通常の記憶に比して、


(1)プロトパシー的である。その鮮明性と対照的に言語化が困難である。その独特の感覚の「質」はその一つである。


(2)「非文脈的」(絶対的)である。この非文脈性は生涯をつうじての不変性、静止性、反復出現性、絶対性(非相対性)、前後関係と時空的定位との不可能性となって現われる。外傷夢の場合は夢作業による加工が行われていないということも、その一つであろう。何年、何十年経っても昨日のごとく再現される。身体外傷が八カ月でほぼ瘢痕治癒するとの対照的であって、心の傷の大きな特徴ということができる(ヴァレリーの『カイエ』にあるとおり「体の傷はほどなく癒えるのに心の傷はなぜ長く癒えないのだろう。五十年の失恋の記憶が昨日のことのように疼く」)。もっとも、古い身体的外傷もセネステジー的に「うずく」ことはある。


(3)主に視覚的記憶が問題にされるが、実際はすべての感覚にわたって現われる。すでに述べたように、振動感覚は一九九五年の阪神・淡路大震災においてみられ、聴覚は幻聴となって統合失調症としばしば誤診されている。触覚、味覚、嗅覚は、インタヴューにおいて問われないために見逃されている可能性がある。性感覚もある。


鮮明性は視覚中心に考えられているが、それぞれの感覚によって独自の鮮明性(生々しさ)がある。ただ、視覚と聴覚以外は、その感覚よりもそれがもたらす結果によって知られることが多いのではないか。阪神・淡路大震災直後および一年後の記念日において、振動感覚のフラッシュバックはまず驚愕と恐怖の表情と、刺激の大きさに釣り合わない「跳び上がり」によって知られたのであった。触覚、味覚、嗅覚なども、この非文脈性のために自他に理解できない嫌悪行動、回避行動(「これはどうしても食べられません」など)に現われている可能性がある。


(4)想起は非自発的、受動的、しばしば侵入的である。類似の感覚刺激によって誘発されることは上記震災の記念日現象にみられるとおりである。別の重要な外傷後行動症状である「回避」との接点でもある。


(5)しばしば強い情動と連合している。この情動は、嫌悪、驚愕、恥辱、マヒ(金縛り)感であることが多い。これが行動症状としての「回避」との第二の接点である。強い情動と連合している場合には、複数の感覚が融合して「共通感覚」となっていることが多い。あるいは共通感覚が地盤となってその上にいずれかの感覚が突出しているのであろうか。


(6)また、情動と感覚の距離が近く、しばしば感覚か情動かの区別がつきにくい。このことは、直接的な嫌悪、驚愕、恥辱、マヒを引き出す触覚以下の近接感覚において顕著である。視覚、聴覚などの遠距離感覚は、刺激の対象化(客観化)を目指す感覚であるために、直接に情動と結合することもあるが、触覚などの近接感覚に触発されて二次的に生じる結合も多い。身体的現象とされる「古傷が疼く」のも、実際には心的外傷の共通感覚的想起であるのではなかろうか。


外傷関連障害においては、恥辱感をはじめとする情動との連合性によって、患者は多くの症状を進んで語らず、その結果、さまざまな病名を告げられ、誤診に異議を唱えず、多年にわたって誤診にもとづく治療を受け入れていることが多い。これは治療者の大いに留意するべき点である。


(7)しばしば、原記憶に比して記憶映像および情動の増強と鮮明化がみられる。これは生理学的疎通(facilitation――反復された特定の刺激経路がそれによって通りやすくなること)によるのかもしれず、反復強迫によることもあり、森田正馬のいう「精神交互作用」すなわち注意の焦点となる強化・反復増強・意識の中心への移動のためとも考えられる。


(8)想起は「索引性」(後述)によらない。いつもすぐ隣りの「控え部屋」にいるようにただちにそっくりそのまま出てくる。この点も成人型記憶との大きな相違点である。


(9)成人型記憶においては、いくつかの記憶を綜合して、これを思考、感情、あるいは意志への導入の手はじめとすることができる。これは、言語化の容易性、文脈性、索引性などによるものと考えられる。外傷性記憶は、二つ以上の独立した感覚映像を同時的・並列的に意識内に置くことができないようである。すなわち、一つの感覚がある時点での意識を独占する。二つ以上の感覚がある場合には、融合して共通感覚化するのであろう。たとえばいじめの加害者の視覚映像と聴覚(音声内容と音調)映像。(中井久夫「発達的記憶論ーー外傷性記憶の位置づけを考えつつ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)





 成人型記憶の特徴

成人型記憶を幼児型記憶と対照させれば、


(1)一般に記憶映像に全体と部分があり、分化している。しかし、それだけに尽きるものではない。それは、ふだんは不明瞭であるが、部分を切り離して取り出し、その部分を拡大することができる。さらに、これから部分を取り出して、拡大することができる。すなわち、二次的な「全体と部分」ではなく、重層性、階層秩序〔ヒエラルキー〕性、そして「フラクタル性」(部分を拡大してみると全体と同じ建築的構造 architecturality がある)を持っている。


(2)ゆらぎ性がある。記憶建築は柔構造である。これは記憶映像が視覚であっても絵画のように固定的図式ではないことを含意している。サルトルはこれを記憶の絶対的貧困性と呼んだのであろう。絶対的貧困性とは視覚的記憶映像の任意の部分を問うてみると、必ず曖昧な部分があることである。


(3)これと関連して、文脈依存性 contexutuality がある。すなわち、自己史記憶連続体の中で、その時間的・空間的前後関係によって感覚映像もそれに伴う情動が決定される。したがって、生きてゆくうちに、自己史記憶連続体の中での意味づけも変化し、それに伴って情動も、記憶映像自体ですら変化する。かつては生死を賭けた問題も時間がたてば一片の挿話となってしまう。


(4)索引性indexicality がある。想起は、一見無媒介的であっても、文脈的である。すなわち、文脈を「索引」に用いて到達できる。


(5)言語化が容易である。サルトルのいう絶対的貧困性は言語化と関連して言ううることであって、記憶映像自体が「貧困」かどうかをいうことはできない。むしろ、記憶映像の過剰な豊富性を「減圧」し「貧困化」しえ、「合意による確認」すなわち社会性を帯びさせることに、言語化の第一義的な意味があるのであろう。


言語化の第二の重要な意味はストーリーとしての自分史の形成が言語化を介して行われることである。(中井久夫「発達的記憶論ーー外傷性記憶の位置づけを考えつつ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)





④プルーストへの言及と解離

遅発性の外傷性障害がある。〔・・・〕これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・外傷・記憶』)

「索引性」が個別知覚を束ねて共通感覚に近い場合があることは、プルーストの『失われた時を求めて』の中の、紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだとき、あるいは石段のくぼみを踏んだときにそれと関連した全情景が魔法のようにたち現れる物語が端的に示している。(中井久夫「発達的記憶論ーー外傷性記憶の位置づけを考えつつ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

プルーストの…「心の間歇 intermittence du cœur」は「解離 dissociation」と比較されるべき概念である。…解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年『日時計の影』所収)





⑤解離=フロイトの排除

外傷神経症〔・・・〕その主な防衛機制は何かというと、解離です。置換・象徴化・取り込み・体内化・内面化などのいろいろな防衛機制がありますが、私はそういう防衛機制と解離とを別にしたいと思います。非常に治療が違ってくるという臨床的理由からですが、もう少し理論化して解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。〔・・・〕

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいう解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



※原抑圧=排除=固着(参照





⑥ある臨界線以上の強度の外傷体験の治癒不能性

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。


しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー、一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)




⑦喜ばしいトラウマ、あるいは不変の刻印として永続する記憶

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)


※1、トラウマ=身体の出来事=自我への傷=固着と反復強迫=不変の個性刻印

トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。


また疑いもなく、初期の自我への傷である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs] 〔・・・〕

このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]


この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印 と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]

(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)




※2、享楽=身体の出来事=トラウマ=固着

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021)




※3、欲動の対象(リビドーの対象)=固着

欲動の対象は、欲動がその目標を達成できるもの、またそれを通して達成することができるものである。〔・・・〕特に密接に「対象への欲動の拘束」がある場合、それを固着と呼ぶ。この固着はしばしば欲動発達の非常に早い時期に起こり、分離されることに激しく抵抗して、欲動の可動性に終止符を打つ。

Das Objekt des Triebes ist dasjenige, an welchem oder durch welches der Trieb sein Ziel erreichen kann. [...] Eine besonders innige Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung desselben hervorgehoben. Sie vollzieht sich oft in sehr frühen Perioden der Triebentwicklung und macht der Beweglichkeit des Triebes ein Ende, indem sie der Lösung intensiv widerstrebt. (フロイト「欲動とその運命』1915年)

人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する[Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält.] (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である[La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido] (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である[Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)





………………



中井久夫のトラウマ研究は2004年に上梓された『徴候・記憶・外傷』(岩波書店)が核であるだろう。


『徴候・記憶・外傷』はこういう並びになっている。


1 徴候


世界における索引と徴候 

1990年7月

「世界における索引と徴候」について

1990年9月


2 記憶


発達的記憶論――外傷性記憶の位置づけを考えつつ

2002年9月


3 外傷


トラウマとその治療経験――外傷性障害私見 

2000年6月

統合失調症とトラウマ 

2002年6月

外傷神経症の発生とその治療の試み

2002年9月

外傷性記憶とその治療――一つの方針 

2003年3月



後は、4 治療、5 症例、6 身体と続くが、掲載論文については割愛。



2の「発達的記憶論――外傷性記憶の位置づけを考えつつ」は、3の《「外傷性記憶とその治療――一つの方針」の前半を詳述したもの》としており、おそらくこの「発達的記憶論」がトラウマ研究の核のさらなる核とすることができる。



※付記

◼️共通感覚性 coenaesthesiaと原始感覚性 protopathyと絶対性 absoluteness

私たちは、外傷性感覚の幼児感覚との類似性を主にみてきて、共通感覚性 coenaesthesiaと原始感覚性 protopathyとを挙げた。


もう一つ、挙げるべき問題が残っている。それは、私が「絶対性」absoluteness、と呼ぶものである。〔・・・〕


私の臨床経験によれば、絶対音感は、精神医学、臨床医学において非常に重要な役割を演じている。最初にこれに気づいたのは、一九九〇年前後、ある十歳の少女においてであった。絶対音感を持っている彼女には、町で聞こえてくるほとんどすべての音が「狂っていて」、それが耐えがたい不快となるのであった。もとより、そうなる要因はあって、聴覚に敏感になるのは不安の時であり、多くの場合は不安が加わってはじめて絶対音感が臨床的意味を持つようになるが、思春期変化に起こることが目立つ。〔・・・〕


私は自閉症患者がある特定の周波数の音響に非常な不快感を催すことを思い合わせる。


絶対性とは非文脈性である。絶対音感は定義上非文脈性である。これに対して相対音感は文脈依存性である。音階が音同士の相対的関係で決まるからである。


私の仮説は、非文脈的な幼児記憶もまた、絶対音感記憶のような絶対性を持っているのではないかということである。幼児の視覚的記憶映像も非文脈的(絶対的)であるということである。


ここで、絶対音感がおおよそ三歳以前に獲得されるものであり、絶対音感をそれ以後に持つことがほとんど不可能である事実を思い合わせたい。それは二歳半から三歳半までの成人型文法性成立以前の「先史時代」に属するものである。〔・・・〕音楽家たちの絶対音感はさまざまなタイプの「共通感覚性」と「原始感覚性」を持っている。たとえば指揮者ミュンシュでは虹のような色彩のめくるめく動きと絶対音感とが融合している。


視覚において幼児型の記憶が残存する場合は「エイデティカー」(Eidetiker 直観像素質者)といわれる。(中井久夫「発達的記憶論ーー外傷性記憶の位置づけを考えつつ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)




◼️ありゃあ地獄だよ

私の子ども時代といえば、明治生まれはまだ若くて、元治だとか嘉永だとか万延生まれの人がおられました。この時代、日露戦争の勇士は戦争体験を語らないと言われていました。一般に明治人は寡黙であり、これは明治人の人徳であると思われてしました。けれども、今から考えるとそうではなくて、日露戦争は、最後は白兵線つまり銃剣で戦われたわけです。それはほとんど語りえないものであったのではないだろうかと思うのです。


その一つの傍証を挙げましょう。精神科の大先輩の話ですが、軍医として太平洋戦争に参加している人です。一九七七年にジャワで会った時には、戦争初期のジャワでの暮らしが、いかに牧歌的であったかという話を聞かせてくれました。先生はその後ビルマに行かれたのですが、そちらに話を向けても「あっ、ビルマ。ありゃあ地獄だよ」と言ってそれでおしまいでした。

ところが一九九五年の阪神淡路大地震のあとお会いした時には、「実は、今でもイギリスの戦闘機に追いかけられる夢を毎晩見るんだ」ということを言われました。震災について講演に行くと、最前列に座っているのが白髪の精神科の長老たちで、これまであまり側に寄れなかったような人たちですが、講演がすんだら握手を求めに来て「戦争と一緒だねえ」というようなことを言われるわけですね。神戸の震災によって外傷的な体験というものが言葉で語ってもいいという市民権を得たのだなと思いました。それまでずっと黙っておられたのですね。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)




……………


※追記


笑われるかもしれないが、大戦中、飢餓と教師や上級生の私刑の苦痛のあまり、さきのほうの生命が縮んでもいいから今日一日、あるいはこの場を生かし通したまえと、“神”に祈ったことが一度や二度ではなかった……(中井久夫「知命の年に」1984年初出『記憶の肖像』所収)

たまたま、私は阪神・淡路大震災後、心的外傷後ストレス障害を勉強する過程で、私の小学生時代のいじめられ体験がふつふつと蘇るのを覚えた。それは六十二歳の私の中でほとんど風化していなかった。(中井久夫「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』所収、1996年)

阪神・淡路大震災は私の中の何かを変えた。地面が揺れたごときで何が変わるかと自分に言いきかせたのは今から思えば笑止であった。


まず、私は沈黙している患者の側に何時間でもいるという精神科医にとって不可欠な能力をまだ回復していない。三十年以上続けられていたこのことができなくなった。私は一九九七年春に病院を定年で退くからおそらく回復の機会はないだろう。これは高揚状態というか躁状態で地震に続く事態に対応した後遺症ではないかと思う。


いっぽう、私は患者のこころの傷に敏感となった。幼年時代の虐待や学校でのいじめを受けた過去が現在に働いているのを察知するのに敏速になった。過去の過酷な体験のフラッシュバックに今も苛まれている患者がいかに多いか。(中井久夫「私の「今」」1996年8月初出『アリアドネからの糸』所収)


一般に、語られる外傷性事態は、二次的な体験、再燃、再演であることが多い。学校でのいじめが滑らかに語られる時など、奥にもう一つあると一度は考えてみる必要がある。〔・・・〕


しかし、再燃、再演かと推定されても、当面はそれをもっぱら問題にしてよい。急いで核心に迫るべきではない。それは治療関係の解消あるいは解離その他の厄介な症状を起こす確率が高い。「流れがつまれば水下より迫れ(下流の障害から除去せよ)」とは下水掃除の常道である。(中井久夫「トラウマと治療体験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)