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2022年12月25日日曜日

京都の過剰記憶

 次の三文は並べておこう。1984年、1986年、1990年の三文である。


◼️京都の過剰記憶(ヒペルムネジー)

昨日、私は京都から帰って来た。カゼをこじらせ、咽喉を腫らせ、肩をひどく凝らせて。いつも楽に上がれる最寄りの地下鉄の駅の階段がピラミッドのようにそそり立って見えた。


京都は、いつも私を過剰な影響で圧倒しようとする。この三年、身体が急に弱くなったのも京都に往診を繰り返した一カ月の翌月からだった。その病からは二年掛かって回復したが、依然、京都に接近するたびに私には何かの故障が起こる。おそらく初老になって形に現われるようになっただけで、この街との不適合性は私の若い時から存在しつづけていたはずだ。〔・・・〕


私には、この街で行うことはすべて挫折を約束されていた。私は初め内的に反抗し、ついで二度脱出を試みた。一度は大阪に、二度目は東京に。そして二度目に脱出は成功した。


もっとも私が、依然、京都との「接触の病い」から本復していないことは冒頭に述べた通りである。京都に数時間留まることは、ほとんどプルースト的な、しかしはるかに悪魔的な記憶のパンドラの箱を開けることである。それは、精神病理学で「ヒペルムネジー」(過剰記憶)といわれるものであり、たまたま私には、年齢に従って衰えるはずのこの能力が依然あるために、数カ月分の健康が一日で破壊されるのであろう。〔・・・〕


精神科医が都市を論じる資格があるとすれば、それは単に、その職業によって、他の人々の立ち入れない地下水脈を知るからだけではないと私は思う。それは隠し味にはなるだろうが、ほとんどすべて書くことができないか書きたくない。その他に、職業ゆえか、その職業を選ばせた個人的特性かは知らず、“過剰な影響”に身を曝す習性があると思う。精神科医の第一の仕事はまず感受することである。


過剰な影響といったが、それは特別なものではない。おそらく、普通の人ひとっては、意識のシキイ以下で作用しているものであろう。


精神科医は「穿鑿する人」ではないと思う。「まず感受すること」といったが、「観察」と「感受」との差が非常に近いということだ。望遠鏡でも顕微鏡でもなく、さりとて音叉でもなく、アンテナのように、あるいはその原義(昆虫の触覚)のようにーー。(中井久夫「神戸の光と影」初出1984年『記憶の肖像』所収) 




◼️ 底深い腐葉土の上に建つ京都の街の菌臭

カビや茸の匂いーーこれからまとめて菌臭と言おうーーは、家への馴染みを作る大きな要素だけでなく、一般にかなりの鎮静効果を持つのではないか。すべてのカビ・キノコの匂いではないが、奥床しいと感じる家や森には気持ちを落ち着ける菌臭がそこはかとなく漂っているのではないか。それが精神に鎮静的にはたらくとすればなぜだろう。


菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。〔・・・〕


菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。こういう死の観念のない世界がいくらでもある。ロメオとジュリエットの墓は、収納ケースのたくさんある地下室である。そこでは死体は乾いてミイラになるのであろうが、さらに砂漠の中での徹底的に乾燥した死となると、これは実にわれわれから遠い。旧約やイスラムの死とはそういうものだろうが、私などがあの苛烈な宗教に馴染めないとしたら、死にまつわる匂いのこの違いも一役買っているかもしれない。われわれの宗教は、逆に、菌臭のただよう世界にしか安住できないのかもしれない。神道が、すでに、森の奥の空き地に石を一つ置いたものを拝むところから始まっている。樹脂と腐葉土の匂いの世界を聖としたのである。


京都の街々、家々を思うと、いかにも底深い腐葉土の上に建てられているという感じがある。いたるところに過去のものがカビ類に洗われて骨格だけをとどめながら埋もれているのは周知のとおりである。菌臭のただようひんやりした露地は、それが地表にたまたま現れたもので、いずれまた地下に沈みこんでゆく運命である。


とりわけ、寺院というものは、京都であれ熊野であれ信州であれ、特別に腐葉土の深いところに建てられているように感じる。平安以後、日本の仏教は山岳仏教になったというが、寺は菌臭の深いところを求めて次第に山にはいったのではないか。それ以前に建ったナラの寺だけは、なぜか、菌臭が不足しているように思う。からりと明るい。ギリシャ神殿の面影があっても可笑しくない。唐招提寺など、裏の森にはいって初めて鎮静的なものが私を包みこむように感じる。それまでは何か外国にいる感じがする。寺の雰囲気を抹香臭いというが、あれは単に線香の匂いではあるまい。線香の匂いも寺の持つ鎮静的な菌臭の一部である。話は逆で、寺の匂いと馴染むものが線香の匂いとして採用されたのではないか。


菌臭は、単一の匂いではないと思う。カビや茸の種類は多いし、変な物質を作りだすことにかけては第一の生物だから、実にいろいろな物質が混じりあっているのだろう。私は、今までにとおってきたさまざまの、それぞれ独特のなつかしい匂いの中にほとんどすべて何らかの菌臭の混じるのを感じる。幼い日の母の郷里の古い離れ座敷の匂いに、小さな神社に、森の中の池に。日陰ばかりではない。草いきれにむせる夏の休墾地に、登山の途中に谷から上がってくる風に。あるいは夜の川べりに、湖の静かな渚に。


実際、背の下にふかぶかと腐葉土の積み重なるのを感じながら、かすかに漂う菌臭をかぎつつ往生するのをよしとし、大病院の無菌室で死を迎えるのを一種の拷問のように感じるのは、人類の歴史で野ざらしが死の原型であるからかもしれない。野ざらしの死を迎える時、まさに腐葉土はふかぶかと背の下にあっただろうし、菌臭のただよってきたこともまず間違いない。


もっとも、それは過去の歴史の記憶だけだろうか。菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)



青年時代の京都の生活は、腐葉土のかもしだす共通感覚、すなわち、いくばくかのキノコのかおりと焦げた落葉のにおいと色々の人や動物の体臭のごときものとを交え、さらに水の流れなくなってまだ乾かないうちの石づくりの流水溝の臭気を混ぜたうえで、冷気としめり気とをあたえてひんやりさせ、地を低くはわせたときの共通感覚と切り離すことができない。もっとも同じ京都とはいえ、嵐山のあたりは少しちがって、ある歯切れのよさがある。定家の晩年の歌にはそれを反映したものがあると私は思う。また西山の竹林の竹落葉には少しちがったさわやかさがあって私の好みではあるが、触発される思考の種類さえ京都の東部とは変わってしまう。〔・・・〕


塩味のまったくない空気は、どうも私を安心させないらしい。鎌倉の最初の印象は、 “海辺にある比叡山”であった。ふとい杉の幹のあいだの砂が白かっただけではない。比叡の杉を主体とした腐葉土の匂いが、明らかに海辺の、それもほとんど瀬戸内海の夏の匂いでしかありえないものとまじるのが驚きのもとであった。もっとも、比叡山のかおりにも、杉とその落葉のかおりにまじって、琵琶湖の水の匂いが、なくてはならない要素である。この水の匂いゆえに、京都時代の私は、しばしば、滋賀県に出て屈託をいやした。比良山は、六甲山に似て、草いきれがうすく、それでいてわびともさびともちがう、淡いながらに何かがたしかにきまっているという共通感覚をさずけられるのが好きであった。好ましく思うひとたちとでなければ登りたくない山であった。(中井久夫「世界における徴候と索引」1990年『徴候・記憶・外傷』所収)




よくないよ、あの街は。とくに東山のほうだけれど。私は西山のほうに10年ほど住んだが、飲みに行くにはどうしても東山の繁華街になる。まさに菌臭の街だね。もっとも路地奥の女のキノコの匂に誘われるだけじゃない。西山だって神社がふんだんにあり巫女がふんだんにいる。赤い袴履いて境内を掃除してるだけで、エロトスの匂の深みに嵌るよ。梅仕事なんかしてたらなおさらだ。





蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、

五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子、


ーー暁方ミセイ「駐アカシック、ニュー稲荷前トゥーム」