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2022年12月24日土曜日

燈火の周圍にむらがる蛾と二度の消灯

 

小津安二郎『風の中の牝鶏』1948年


我等の故郷に歸らんとする、我等の往時の状態に還らんとする、希望と欲望とを見よ。如何にそれが、光に於ける蛾に似てゐるか。絶えざる憧憬を以て、常に、新なる春と新なる夏と、新なる月と新なる年とを、悦び望み、その憧憬する物の餘りに遲く來るのを歎ずる者は、實は彼自身己の滅亡を憧憬しつつあると云ふ事も、認めずにしまふ。しかし、この憧憬こそは、五元の精髓であり精神である。それは肉體の生活の中に幽閉せられながら、しかも猶、その源に歸る事を望んでやまない。自分は、諸君にかう云ふ事を知つて貰ひたいと思ふ。この同じ憧憬が、自然の中に生來存してゐる精髓だと云ふ事を。さうして、人間は世界の一タイプだと云ふ事を。(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』芥川龍之介訳(抄譯)大正3年頃)

Or vedi la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume, dell'uomo che con continui desideri sempre con festa aspetta la nuova primavera, sempre la nuova state, sempre e' nuovi mesi, e' nuovi anni, parendogli che le desiderate cose venendo sieno troppe tarde, e non s'avede che desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi, che trovandosi rinchiusa pro anima dello umano corpo desidera sempre ritornare al suo mandatario. E vo' che s'apichi questo medesimo desiderio en quella quintaessenza compagnia della natura, e l'uomo è modello dello mondo.(Codice Leonardo da Vinci)



『東京物語』1953年


かくて私は詩をつくる。燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして、むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる。私はあはれな空想兒、かなしい蛾蟲の運命である。 


されば私の詩を讀む人は、ひとへに私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢいを聽くであらう。その笛の音こそは「艶めかしき形而上學」である。その笛の音こそはプラトオのエロス――靈魂の實在にあこがれる羽ばたき――である。そしてげにそれのみが私の所謂「音樂」である。「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」といふ、その象徴詩派の信條たる音樂である。(萩原朔太郎「青猫」序、1923(大正12)年)




小津安二郎は傘付き裸電球の消灯映像を何度も使っているが、『東京暮色』には続け様の二度消灯があるのについ一週間前にようやく気づいた。




『東京暮色』1957年



僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。(芥川龍之介「或旧友へ送る手記」昭和二年七月、遺稿)

マインレンデルは頗る正確に死の魅力を記述してゐる。実際我々は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるやうにぢりぢり死の前へ歩み寄るのである。(芥川龍之介「侏儒の言葉」1927(昭和2)年)






クリストは一代の予言者になつた。同時に又彼自身の中の予言者は、――或は彼を生んだ聖霊はおのづから彼を飜弄し出した。我々は蝋燭の火に焼かれる蛾の中にも彼を感じるであらう。蛾は唯蛾の一匹に生まれた為に蝋燭の火に焼かれるのである。クリストも亦蛾と変ることはない。(芥川龍之介「西方の人」昭和二年七月十日、遺稿)