小津安二郎の 『晩春』(1949年)の原節子と『麦秋』(1951年)の三宅邦子の消灯の瞬間の映像はひどく好みなんだが、消灯だけではなくその後の急須なんだ、印象的なのは。
前回のゴダールとは異なり、原カオスの光を消して急須に焦点を当てるというのは、いかにも妣の国の映像作家だね。この映像にひどく惹かれるってのは、ここでもまた私のフェティシズムなんだろうよ、急須による穴埋めというわけでさ。急須ってのはやっぱり女のことだろうからな。
階段・梯子・踏台、ことにそういうものの上を昇降することは性行為の象徹的表現である。…テーブル、食卓と盆は女を現わす。 Stiegen, Leitern, Treppen, respektive das Steigen auf ihnen, und zwar sowohl aufwärts als abwärts, sind symbolische Darstellungen des Geschlechtsaktes (…) Tische, gedeckte Tische und Bretter sind gleichfalls Frauen (フロイト『夢解釈』第6章E) |
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小津の作品には初期から薬缶が頻出するんだが、あれは女か子宮に違いないだろうしな 右奥にグルグル回ってんのは、何かは言わずもがな、だろ? 東京の女はむかしから寂しいんだよ
1959年の『お早よう』の緑の薬缶は、逆に女が欲しいってヤツだろうよ。 女が欲しいったってヤリたいというわけじゃなく、薬缶回帰のほうだな、このメンツは。 カラー時代の小津は、若い女の傍には赤い薬缶、中年女には黄色い薬缶を配している、おおむねだが。 さらに遺作『秋刀魚の味』の最後の場面ではーー母の死後一年ほどの作品ーー、笠智衆が悲しみのなか燻銀の薬缶から水を飲んでいる。 |
ま、このあたりは小津ファンなら「常識」かもしれないけど。ボクはようやく数年前にいくらか集中的に観て気づいたってだけで。
というわけでフェティシストの映画鑑賞の断片を記してしまった。巷間の強迫神経症者やヒステリー、あるいはパラノイアの方々にはひょっとして無縁の領域かもしれない(というほど奇異なことは書いていないつもりだが、念のためこう言っておく)。
人は、読書の快[plaisirs de lecture]のーーあるいは、快の読書[lecteurs de plaisir]のーー類型学を想像することができる。 それは社会学的な類型学ではないだろう。なぜなら、快は生産物にも生産にも属していないからである。それは精神分析的でしかあり得ず、読書の神経症[la névrose lectrice]とテキストの幻覚形式[la forme hallucinée du texte]との関係を結びつけるだろう。 フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快に向いているだろう。Le fétichiste s'accorderait au texte découpé, au morcellement des citations, des formules, des frappes, au plaisir du mot. |
強迫神経症者は、文字や、入れ子細工状になった二次言語や、メタ言語に対する官能を抱くだろう(この部類には、すべての言語マニア、言語学者、記号論者、文献学者、すなわち、言語活動がつきまとうすべての者が入るだろう)。 L'obsessionnel aurait la volupté de la lettre, des langages seconds, décrochés, des métalangages (cette classe réunirait tous les logophiles, linguistes, sémioticiens, philologues : tous ceux pour qui le langage revient). パラノイアは、ねじれたテクスト、理屈として展開された物語、遊びとして示された構成、秘密の束縛を、消費し、あるいは、生産するだろう。Le paranoïaque consommerait ou produirait des textes retors, des histoires développées comme des raisonnements, des constructions posées comme des jeux, des contraintes secrètes. |
(強迫症者とは正反対の)ヒステリー症者は、テクストを現金として考える者、言語活動の、根拠のない、真実味を欠いた喜劇に加わる者、もはやいかなる批評的視線の主体でもなく、テクスト越しに身を投げる(テクストに身を投影するのとは全く違う)者といえるであろう。Quant à l'hystérique (si contraire à l'obsessionnel), il serait celui qui prend le texte pour de l'argent comptant, qui entre dans la comédie sans fond, sans vérité, du langage, qui n'est plus le sujet d'aucun regard critique et se jette à travers le texte (ce qui est tout autre chose que de s'y projeter). (ロラン・バルト『テキストの快楽』1973年) |
ま、世界にはいろんなタイプがあるんだよ、私は主に、強迫神経症者系やときにパラノイア系の学者をバカにする傾向があるが、自戒の意味でも、いまバルトを掲げておいた。彼らにも私には無縁の、しかし優れた領域があるんだろうよ、という意味で。