フェティッシュとは、何よりもまず穴埋めであり、穴に対する防衛である。この観点からは、穴の向こうから女がやってくるのが、最も優れたフェティッシュの効果を生む仕方、少なくともそのひとつである。
その意味で、トリュフォーの『あこがれ(Les Mistons)』(1958年)の次の映像は至高のフェティシズム喚起の事例のひとつである。
ゴダールの『決別(Hélas pour moi)』(1993年)は冒頭からトリュフォーの『あこがれ』を回顧するかのようなイマージュが現れる。
ここでは、いったん自転車が倒れ、フェティッシュの構成に失敗するかに見えるが、追って神の女が現れ、当面救いが訪れる。
なぜ穴埋めしなければならないのか。これもゴダールは同じ作品で表現している。
オワカリダロウカ? 真のフェティシストならきっとすぐに。
そうでない方のために蛇足ながらこうつけ加えておきませう。
我々の往時の状態回帰(原カオスへの回帰 ritornare nel primo chaos)への希望と憧憬は、蛾が光に駆り立てられるのと同様である。…人は自己破壊憧憬[desidera la sua disfazione]をもっており、これこそ我々の本源的憧憬である。 la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume[…] desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』) |
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蛾が光に駆り立てられるかのように原カオスに吸い込まれてしまいそうになる。これが穴の効果である。 |
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より深い本能としての破壊への意志、自己破壊の本能、無への意志[der Wille zur Zerstörung als Wille eines noch tieferen Instinkts, des Instinkts der Selbstzerstörung, des Willens ins Nichts](ニーチェ遺稿、den 10. Juni 1887) |
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我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。 Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
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このダ・ヴィンチ、ニーチェ、フロイトの三幅対によって、フェティシストでない方も十全におわかりになったことでせう。フェティッシュとは死の欲動に対する防衛なのである。ときにギリギリの、ときに巧妙な。 足などの白いフェティッシュなら巧みな防衛と言いうるが、黒いフェティッシュを抱えている人物はとて危険なのでくれぐれもオキヲツケヲ!
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