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2022年12月24日土曜日

ヒトにおいて10万年は変わっていない「エスなる生理」

 

人類は、おそらく十万年ぐらいは、生理的にほとんど変化していないと見られている。心理だって、そう変わっていまい。そして、生理と心理は予想以上に密接である。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)

"psycho-" は自我に当たり、エスは "biological" に相当するとしましょう。これ(自我)が一番変動しやすいものです。人体のほうは十万年ぐらい変わりません。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


いくらか記述のばらつきがあるが、ここでは心理/生理、そして自我/エスを抽出する。




中井久夫が言っているのは、底部構造の生理あるいはエスは10万年は変わっていない。だが上部構造の心理あるいは自我は変動しやすいということだ。


社会学者やフェミニストの言説において、現在はフロイトの時代とは大きく変わっており、そのまま参照しがたいというのがある。確かに! 上部構造は間違いなくそうだ。だがヒトにおいて下部構造はたやすく変わるわけがない。彼らには思いの外、この観点が欠けている。《自我はエスの組織化された部分である[das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es ]》(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)。エスの組織化は、フロイトの時代とは変わっている。ラカンの時代とさえも。例えばエディプス的父の失墜が確かに学園紛争を契機に顕著になったのだから。さらに技術革新、とくに携帯電話やインターネットの普及などは自我を変貌させていることだろう。だがエスは1000年程度の単位では決して変わらない。プラトンの時代とだって変わっていない(プラトンのエロスはフロイトのエスのリビドー[Libido des Es](エスの欲動)と事実上等置しうる[参照])。


フロイトラカンにおいてエスは母なるモノに関わる。


忘れてはならない、フロイトによるエスの用語の発明を。(自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。〔・・・〕私はこのエスの確かな参照領域をモノ la Chose と呼んでいる[N'oublions pas (…) à FREUD en formant le terme de das Es.  Cette primauté du Es  est actuellement tout à fait oubliée.  (…) j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose. ](ラカン, S7, 03  Février  1960)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)


母なるモノという現実界のエスは、中井久夫のいうように、おそらく10万年は変わっていないのである。


中井久夫のいう心理/生理(psycho/biological)は、フロイトの psychischen/ biologischenである。


不安は乳児の心的な寄る辺なさの産物である。この心的寄る辺なさは乳児の生物学的な寄る辺なさの自然な相同物である。die Angst als Produkt der psychischen Hilflosigkeit des Säuglings, welche das selbstverständliche Gegenstück seiner biologischen Hilflosigkeit ist. 


出産不安も乳児の不安も、ともに母からの分離[Trennung von der Mutter]を条件とするという、顕著な一致点については、なんら心理学的な解釈を要しない。Das auffällige Zusammentreffen, daß sowohl die Geburtsangst wie die Säuglingsangst die Bedingung der Trennung von der Mutter anerkennt, bedarf keiner psychologischen Deutung;


これは生物学的にきわめて簡単に説明しうる。すなわち母自身の身体器官が、原初に胎児の要求のすべてを満たしたように、出生後も、部分的に他の手段でこれを継続するという事実である。es erklärt sich biologisch einfach genug aus der Tatsache, daß die Mutter, die zuerst alle Bedürfnisse des Fötus durch die Einrichtungen ihres Leibes beschwichtigt hatte, dieselbe Funktion zum Teil mit anderen Mitteln auch nach der Geburt fortsetzt. 


出産行為をはっきりした切れ目と考えるよりも、子宮内生活と原幼児期のあいだには連続性があると考えるべきである。Intrauterinleben und erste Kindheit sind weit mehr ein Kontinuum, als uns die auffällige Caesur des Geburtsaktes glauben läßt


心理的な意味での母という対象は、子供の生物的な胎内状況の代理になっている。Das psychische Mutterobjekt ersetzt dem Kinde die biologische Fötalsituation.   (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)


この胎内状況の代理人としての母がラカンのリアルな母なるモノである。この母は、シンボリックな母、あるいはイマジネールな母と混同しないようにしよう。


フロイトはこのリアルな母についてこうも言っている。


(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさと依存性である[Der biologische ist die lang hingezogene Hilflosigkeit und Abhängigkeit des kleinen Menschenkindes. ]。人間の子宮内生活 [Die Intrauterinexistenz des Menschen] は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界[realen Außenwelt ]の影響が強くなり、エスから自我の分化 [die Differenzierung des Ichs vom Es]が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、きわめて高い価値をおびてくる[der Wert des Objekts, das allein gegen diese Gefahren schützen und das verlorene Intrauterinleben ersetzen kann, enorm gesteigert.]。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない愛されたいという要求 [Bedürfnis, geliebt zu werden]を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)



この母がエスの欲動に関わる究極の欲動の対象であり[参照]、中井久夫曰くの10万年は変わっていない「エスなる生理」である。ところがフェミニストを初めとする社会学者たちは「自我なる心理」しか視野に入れず、セクシャリティを語ってしまう多大な傾向がある。そのことにわれわれは驚き呆れ返らねばならない。



ジェンダー理論は性差からセクシャリティを取り除いてしまった。ジェンダー理論家は性的実践を語り続けながら、性を構成するものへの問いを止めた[Gender theory [...] it removed sexuality from sexual difference. While gender theorists continued to speak of sexual practices, they ceased to inquire into what constituted the sexual](ジョアン・コプチェク Joan Copjec "Sexual Difference" 2012年)

驚くべきは、現代ジェンダー研究において、欲動とセクシャリティにいかにわずかしか注意が払われていないかである[It is striking how little attention has been paid to the drive and to sexuality in contemporary gender studies.](ポール・バーハウ  Paul Verhaeghe「ジェンダーの彼岸にある欲動 drive beyond gender 」2005年)



……………


※付記


なお、フロイトのエスの欲動は、身体的要求である。

エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年)



このエスの欲動の身体がラカンの現実界の享楽である。


享楽は現実界にある。現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel](Lacan, S23, 10 Février 1976)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)



そしてこの現実界の享楽がモノ、母なるモノに関わるエスである。ーー《母はモノの場に来る[la mère vient à la place de das Ding]》 (J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 23/03/99)


フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)

現実界は、象徴界と想像界を見せかけの地位に押しやる。そしてこの現実界はドイツ語のモノdas Dingによって示される。この語をラカンは欲動として示した。

le réel repousse le symbolique et l'imaginaire dans le statut de semblant, ce réel alors apparaît indexé par le mot allemand, …indexé par le mot de das Ding, la chose. Référence par quoi Lacan indiquait la pulsion. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 19/1/2011)



ラカンの象徴界は言語、想像界は主に自我である。


象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique](Lacan, S2, 29 Juin 1955)


ーーラカンは、《想像界は影と反映の形象に過ぎない[imaginaires, …n'y font figure que d'ombres et de reflets. ]》(Lacan, E 11, 1956)とも言った。



先にジャック=アラン・ミレールが象徴界と想像界は見せかけだと言っているのは、ある時期以降のラカンにとってシニフィアン自体が見せかけだからである。


見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](ラカン、S18, 13 Janvier 1971)


つまり自我なる心理はエスなる生理の見せかけに過ぎない。