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2022年12月23日金曜日

コピュリンのレミニサンス

 


中井久夫は、外傷性フラッシュバックに関わる幼児型記憶の文脈において《胎児期以来の記憶》を指摘している。


二つの記憶ーー幼児型と成人型


これは全くの推定であるが、私の考えはこうである。 二歳半から三歳にかけて、大きな記憶の再編成が行われる。 成人文法性の成立に合致するような再編成である。そのために、古型(幼児型、前エディプス型) の記憶が抹消されるのではないかという仮説である。その前提として、誕生以来、あるいは胎児期以来の記憶は、いわば別の文法で書かれていて、成人型の記憶と混じれば混乱を起こしてしまう、つまり、成人型の記憶と両立しがたいものであると私は考えてみる。


残存する幼児型記憶は混乱を招かない無害なものだけとなりがちであろう。それは、たわむれに撮った写真がアルバムに貼られないまま散らばっているようなものである。

それに対して、成人型(後エディプス型) の記憶は、単にビデオや映画のようなものではない。いや、ビデオや映画でも、もちろん、文字どおりの連続性があるわけではない。飛躍があり、カットバックがあり、ズズームインし、その他その他の映画文法を駆使して、ストーリーとしての連続性があることを観客に納得させるのである。それは、語り narrative としての連続感覚である。しかし、成人型の記憶は、それ以上のものである。すなわち、ストーリーは生きる時間とともに変わってゆく。 細部の克明さも、個々の事実の重みも変わる。生死を賭けたと思う体験も回想の中では些細なエピソードに転化する。 逆に、取るに足らない事件が後になって重大な意味を帯びてくる。 生きるということはそういうことである。あるいは「歴史性」とは。この連続感覚は、語りとしての自己史が成立していることによるだけではない。 語りとしての自己史は絶えず現前しているわけではない。私たちは、たいていの時間はそれを「忘れて」いる。しかし、 「それは必要なら取り出せる」という感覚があり、それによって安心しきっていて不安になることはない。逆に、もし、私の記憶していることが、エピソード記憶だけでも、同時にいっせいに意識に現前すれば、この超氾濫状態のために私の意識はたちまち瓦解するであろう。(中井久夫「発達的記憶論ーー外傷性記憶の位置づけを考えつつ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



上に成人型記憶についての記述に関して《語りとしての自己史》の成立云々とあるが、これに対して《語りとしての自己史に統合されない「異物」》が外傷性フラッシュバックをもたらす幼児型記憶である。


外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



《主として鮮明な静止的視覚映像》とあるが、別にこうもある。


ここで、視覚だけでなく、聴覚、味覚、運動感覚、振動感覚も外傷性フラッシュバックを起こすことを強調しておきたい。(中井久夫「発達的記憶論ーー外傷性記憶の位置づけを考えつつ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


これ以外に嗅覚、触覚にも触れているのは、「中井久夫の「トラウマ研究」のいくつか」で見た。


さてこれらの記述から、胎内の記憶は外傷性フラッシュバックを引き起こす、少なくともそれがありうると中井久夫は考えていたと判断してよいだろう。


何度も繰り返し引用してきたが、「胎内の記憶」の箇所を再掲する。


胎内はバイオスフェア(生物圏)の原型だ。母子間にホルモンをはじめとするさまざまな微量物質が行き来して、相互に影響を与えあっていることは少しずつ知られてきた。母が堕胎を考えると胎児の心音が弱くなるというビデオが真実ならば、母子関係の物質的コミュニケーションがあるだろう。味覚、嗅覚、触覚、圧覚などの世界の交歓は、言語から遠いため、私たちは単純なものと錯覚しがちである。それぞれの家に独自の匂いがあり、それぞれの人に独自の匂いがある。いかに鈍い人間でも結婚して一〇日たてば配偶者の匂いをそれと知るという意味の俗諺がある。


触覚や圧覚は、確実性の起源である。指を口にくわえることは、単に自己身体の認識だけではない。その時、指が口に差し入るのか、指が口をくわえるのかは、どちらともいえ、どちらともいえない状態である。口-身体-指が作る一つの円環が安心感を生むもとではないだろうか。それはウロボロスという、自らの尾を噛む蛇という元型のもう一つ先の元型ではないだろうか。


聴覚のような遠距離感覚でさえ、水の中では空気中よりもよく通じ、音質も違うはずだ。母親の心音が轟々と響いていて、きっと、ふつうの場合には、心のやすらぎの妨げになる外部の音をシールドし、和らげているに違いない。それは一分間七〇ビートの音楽を快く思うもとになっている。児を抱く時に、自然と自分の心臓の側に児の耳を当てる抱き方になるのも、その名残りだという。母の心音が乱れると、胎児の心音も乱れるのは知られているとおりである。いわば、胎児の耳は保護を失ってむきだしになるのだ。

視覚は遅れて発達するというけれども、やわらかな明るさが身体を包んでいることを赤児は感じていないだろうか。私は、性の世界を胎内への憧れとは単純に思わない。しかし、老年とともに必ず訪れる、性の世界への訣別と、死の世界に抱かれることへのひそかな許容とは、胎内の記憶とどこかで関連しているのかもしれない(私は死の受容などと軽々しくいえない。死は受容しがたいものである。ただ、若い時とは何かが違って、ひそかに許しているところがあるとはいうことができる)。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年 『時のしずく』所収)




これも何度も強調してきたが、中井久夫曰くの外傷性フラッシュバックをもたらす《語りとしての自己史に統合されない「異物」》の異物はフロイト用語であり、異者としての身体[Fremdkörper]とも訳すことができる。フロイトにおけるこの「異物=異者としての身体」の主要な定義は、レミニサンス[Reminiszenz]を引き起こすトラウマ、あるいはエスの欲動蠢動[Triebregung des Es]である。この概念はもともとラテン語 "corpus alienum" に起源があり、直訳すれば「エイリアンの身体」である。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物=異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)




ところで中井久夫は胎内の記憶をめぐる文脈において、無意識的なフェロモンの作用を語ってもいる。


母子の時間の底には無時間的なものがある。母の背に負われ、あるいは懐に抱かれたならば、時間はもはや問題ではなくなる。〔・・・〕

この無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」2003年初出『時のしずく』所収)



おそらくこのフェロモンの作用自体、外傷性フラッシュバック、あるいは異者としての身体のレミニサンスの効果に関わるとすることができるのだろう。いわゆる母胎の匂いのレミニサンスである。



とすれば、コピュリン効果も、胎内の記憶の外傷性フラッシュバック作用の一種で十分ありうる。

何人かの研究者が信じているのは、コピュリンと呼ばれる女性のヴァギナホルモンは、テストステロン(男性ホルモン)のレベルを上げて性欲を増大させるということだ[female vaginal hormones called copulins that some researchers believe raise testosterone levels and increase sexual appetite in men](Bruce Fink, Lacan on Love: An Exploration of Lacan's Seminar VIII, 2017)



写真や映像は匂いがないのが決定的欠陥だが、お尻をポリポリされるといくらかのコピュリン作用が醸し出されるかのように感じられ、隙間風の匂のレミニサンスに耽ることができた(Nobuyoshi Araki at work by Sono Sion)。





彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンスにふけっていた[j'étais froid devant des beautés qu'ils me signalaient et m'exaltais de réminiscences confuses]〔・・・〕そして戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった[je m'arrêtai avec extase à renifler l'odeur d'un vent coulis qui passait par la porte. « Je vois que vous aimez les courants d'air », me dirent-ils. ](プルースト「ソドムとゴモラ」)





隣のテーブルにいる女の匂[l'odeur de la femme qui était à la table voisine]…それらの顔は、私にとって、節操のかたいこちこちの女だとわかっているような女の顔よりもばるかに好ましいのであって、後者に見るような、平板で深みのない、うすっぺらな一枚張のようなしろものとは比較にならないように思われた[leur visage était pour moi bien plus que celui des femmes que j'aurais su vertueuses et ne me semblait pas comme le leur, plat, sans dessous, composé d'une pièce unique et sans épaisseur]。〔・・・〕

それらの顔は、ひらかれない扉であった[ces visages restaient fermés]。しかし、それらの顔が、ある価値をもったものに見えてくるためには、それらの扉がやがてひられるであろうことを知るだけで十分なのであって[ c'était déjà assez de savoir qu'ils s'ouvraient] 、もしもそれらの顔が、愛の思出を金のふたにおさめたあのロケットではなくて、単なる美しいメダルにすぎなかったならば [s'ils n'avaient été que de belles médailles, au lieu de médaillons sous lesquels se cachaient des souvenirs d'amour]、私はそれらに価値を見出すことはなかっであろう。 (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)