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2022年12月4日日曜日

スタンダールの身体の出来事と高所の感覚

 

スタンダールの自伝で最も名高いのは次の箇所だろう。

私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。 〔・・・〕

ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を飛び越えた。cette femme vive et légère comme une biche sauta par dessus mon matelas pour atteindre plus vite à son lit. (スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』)



このスタンダールの出来事は、間違いなく、スタンダールの享楽だ。


享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である。la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021)



つまり身体の出来事への固着だ。

病因的トラウマ、この初期幼児期のトラウマはすべて五歳までに起こる[ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an]〔・・・〕


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕


このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]

この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


ラカンの享楽はこの幼児期のトラウマへの固着、身体の出来事への固着、不変の個性刻印であり、生涯反復強迫を引き起こすものだ。


おそらくスタンダールの高所の感覚は、母なる雌鹿体験に起源があるんじゃないかね。

あなたにはわかるんじゃないかな、スタンダールのなかの、精神生活とむすびついた高所の感覚[sentiment de l'altitude]といったものを。ジュリアン・ソレルが囚えられている高い場所[le lieu élevé où Julien Sorel est prisonnier]、ファブリスがその頂上にとじこめられている高い塔[la tour au haut de laquelle est enfermé Fabrice]、ブラネス神父がそこで占星術に専念し、ファブリスがそこから美しいながめに一瞥を投げる鐘塔[l'abbé Barnès s'occupe d'astrologie et d'où Fabrice jette un si beau coup d'œil]。あなたはいつかぼくにいったことがあってけれど、フェルメールのいくつかの画面を見て、あなたによくわかったのは、それらがみんなおなじ一つの世界の断片だということであり、天才的な才能で再創造されてはいても、いつもおなじテーブル、おなじカーペット、おなじ女、おなじ新しくてユニークな美だということだった、つまりその美は当時には謎であって、その当時にもしもわれわれが主題の上でその美をほかにつなぐのではなく色彩が生みだす特殊の印象だけをひきだそうとしても、その美に似たものはほかに何もなく、その美を説明するものはほかに何もなかったということになるんですよ。(プルースト『囚われの女』)



スタンダールの場合、高所に垣間見られた《隠毛の光景への固着[ Fixieren den Anblick der Genitalbehaarung]》(フロイト『フェティシズム』1927年) でもあったんじゃないか。ま、これは憶測だけどさ。


アウグスティヌスの「神の感覚」に近いかもしれないけど。

然るに汝はわが最も内なる部分よりもなお内にいまし、わが最も高き部分よりもなお高くいましたまえり[tu autem eras interior intimo meo et superior summo meo] (聖アウグスティヌス『告白』)

われら糞と尿のさなかより生まれ出づ[ inter faeces et urinam nascimur](聖アウグスティヌス『告白』)


ーー《問題となっている女なるものは、神の別の名である[La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu]》(Lacan, S23, 18 Novembre 1975)




女性の享楽ってのは、この身体の出来事の反復のことだよ。


ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! [« qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! ](Lacan, S22, 21 Janvier 1975)

症状は身体の出来事である[le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps](Lacan, JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)


ラカンは、症状としての「ひとりの女は身体の出来事」って言ってるわけで。初期幼児期のひとりの女の出来事は、ほとんど常に母の出来事に決まっている。その出来事がスタンダールのような強烈な出来事かどうかは関係がない。些細な出来事でも不変の個性刻印になりうる。


そしてこのリアルな症状の別名がサントームだ。

サントームは後に症状と書かれるものの古い書き方である[LE SINTHOME.  C'est une façon ancienne d'écrire ce qui a été ultérieurement écrit SYMPTÔME.] (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)

サントームは現実界、無意識の現実界に関係する[(Le) sinthome,  …ce qu'il a à faire avec le Réel, avec le Réel de l'Inconscient]   (Lacan, S23, 17 Février 1976)

ひとりの女はサントームである [une femme est un sinthome ](Lacan, S23, 17 Février 1976)


つまり、ひとりの女としてのサントームは身体の出来事である。

サントームは身体の出来事として定義される [Le sinthome est défini comme un événement de corps](J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un, 30/3/2011)



巷間で言われるジャック=アラン・ミレールがラカンの女性の享楽を享楽自体に解釈し直したなんていうのは嘘で、ミレールはとっても素直にラカンを読んでるだけだ。まわりの人間がそれを読めていなかっただけだ。


確かにラカンは第一期に、女性の享楽[jouissance féminine]の特性を、男性の享楽[jouissance masculine]との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。

だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。〔・・・〕

ここでの享楽自体とは極めて厳密な意味がある。この享楽自体とは非エディプス的享楽である。それは身体の出来事に還元される享楽である[ici la jouissance comme telle veut dire quelque chose de tout à fait précis : la jouissance comme telle, c'est la jouissance non œdipienne,…C'est la jouissance réduite à l'événement de corps.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


要するに男も女も女性の享楽を持っている。人はみな初期幼児期の母なる出来事を無意識的に反復強迫している。これがラカンの現実界の享楽だ。



ここでは《女への固着(おおむね母への固着)[Fixierung an das Weib (meist an die Mutter)]》(フロイト『性理論三篇』1905年、1910年注)を強調したが、固着には種々ある。


(発達段階の)展開の長い道のりにおけるどの段階も固着点となりうる[Jeder Schritt auf diesem langen Entwicklungswege kann zur Fixierungsstelle](フロイト『性理論三篇』1905年)


フロイトにおける発達段階とはこうだ[参照]。


母胎期 Mutterleib Phase

口唇期 orale Phase (1歳まで)

肛門期 anale Phase(1歳から3歳)

ファルス期 phallische Phase(3歳から5歳)

潜伏期 Latenzphase(6歳から11歳)

性器期 genitale Phase(12歳以降)



原点は母への固着だとしても、通常の事故的出来事への固着、さらには父への固着だってある。


強い父への固着をもった少女の夢[Traum eines Mädchens mit starker Vaterfixierung](フロイト『夢解釈の理論と実践についての見解』1923年)


場合によってはオットサンのオチンチンへの固着だってある筈だよ。そこのキミなんかその口じゃないかい?