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2022年12月3日土曜日

失われた貝の身への固着

 


固着ってのは手元の大辞林にはこうあるよ。


こちゃく【固着】

①物が他の物にしっかりとくっつくこと。「船底に貝が━する」「━剤」

②〘心〙精神分析で、発達の途上で行動様式や精神的エネルギーの対象が固定され、それ以後の発達がさまたげられること。


難しく考えたらダメだよ、これでいいんだ。船底に貝が固着するなんてとってもいいね、「ヒトにはみな貝への固着がある」と少しだけ言い直せばいいだけでさ。要するにプチットマドレーヌへの固着だ。


溝の入った帆立貝の貝殻のなかに鋳込まれたかにみえる〈プチット・マドレーヌ〉と呼ばれるずんぐりして丸くふくらんだあのお菓子の一つ[un de ces gâteaux courts et dodus appelés Petites Madeleines qui semblent avoir été moulés dans la valve rainurée d'une coquille de Saint-Jacques] (プルースト「スワン家のほうへ」)

厳格で敬度な襞の下の、あまりにぼってりと官能的な、お菓子でつくった小さな貝の身[petit coquillage de pâtisserie, si grassement sensuel sous son plissage sévère et dévot ](プルースト「スワン家のほうへ」)


これで決定だよ、マドレーヌへの固着はレミニサンスするんだ、男女両性とも。


ヒトが惚れた腫れた濡れたとかなるのは、この失われた貝の身への固着のせいさ


忘れないようにしよう、フロイトが明示した愛の条件のすべてを、愛の決定性のすべてを。N'oublions pas … FREUD articulables…toutes les Liebesbedingungen, toutes les déterminations de l'amour  (Lacan, S9, 21  Mars 1962)

愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon,「愛の迷宮Les labyrinthes de l'amour 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015)




例えばリシャールの名高いテーマ批評、とくにそのマラルメ分析は結局、固着の反復[la répétition de la fixation]分析なんだから、根にあるのはやっぱりプチットマドレーヌへの固着のレミニサンスだ。そもそもマラルメの詩ってのは貝の身の隠喩ばっかりだよ。



Méry, l'an pareil en sa course

Allume ici le même été

Mais toi, tu rajeunis la source

Où va boire ton pied fêté.


メリよ、年はひとしく運行を続けて

いまここで、同じ夏を燃え立たせる

しかし、君は泉を若返らせて

祝福される君の足がそこへ水を飲みに行く


ーーマラルメ「メリへの誕生祝詩」



この詩には異本がある。それもあわせて。


L'an pareil en sa course au fleuve qua voici

S'écoule vers la fin d'un été sans merci

Où le pied altéré, fêté par l'eau, se cambre

Pour le taquiner mieux au bout d'un ongle d'ambre.


年はここを流れる川と同じ運行を続けて

夏の終りへ向かって容赦なく流れ去る

喉の渇いた足はそこで水に祝福されて、琥珀色の爪先で

水をもっと、からかおうとして、指を反らす。




プルーストは、この詩は途轍もないプレシオジテ la plus folle préciosité(極度の洗練さ)のなかにあって、どこまでも誠実であり、絶妙な自然さを保っている、と友人宛に書いてこうも言う。


この喉の渇いた足は植物のように水を飲みに行く。これはわれわれの器官がそうであるところのあの目立たない存在、たしかに一個の生命でありながら、目立たない生命を生きているらしいあの存在がどんなものであるかをわれわれに見事に掴ませてくれる〔・・・〕。この足は食物の根のように水を飲む。そのあとで、いかにも足はうれしそうに、まるで渇きが止まったように感じていないだろうか。同様に水に祝福された足というのがえもいえず甘美だ。水は乱された無数のさざ波と一緒になった楽しげに浮かれていて、さざ波はさざ波で自分を踏みつけに来る美しい女の《足》にきらめく愛撫の囁きに来る。要するに親しい短信ともいうべきもののなかに、これほど多くの古風な言葉遣いや、偉大さや、神話や、趣味や、そして自然を見出すのはなんという楽しみだろう。〔・・・〕そもそも生命を厳かに祝祭することがマラルメの魅力なのであり、詩人の役割というものなのだ、―――やれやれ! (Marcel Proust  Lettres à Reynaldo Hahn [Paris, le 28 ou 29 août 1896] )



リシャールは、このプルーストの解釈を「これ以上完璧に《器官的な》理解はまず想像できないだろう」と言いつつこう続ける。


素晴らしい詩だ。これはおそらくその結晶体のなかに、マラルメ的性愛の最も純粋なものを凝結させている。なぜなら火と水のこの夏の結婚、炎暑と涼しさとのこの混淆、愛の祝祭の歓びのなかで永遠に甦ってくる若さ……そしてとりわけ足と泉のこの本源的な結合、ほとんど相互的といっていいこの関係、足=泉のやわらかな先端に集約された肉体の疲れを知らない液状の豊穣さ、マラルメはたぶんそうした愛の尽きることない豊かさをこの単純そのもののような四行詩のなかでこれほど見事に暗示したことは決してないであろうから。(ジャン・ピエール・リシャール『マラルメの想像的宇宙』)



メリ・ローランーーマネの愛人であり、その後マラルメの愛人ーーの実にプレシオジテな帆立貝の写真があるよ、


クリステヴァの旦那のブログから


蚊居肢子はプルーストのマドレーヌの起源はこの写真にあるんじゃないかとまで疑い続けているぐらいでね。