以下、主に中井久夫の日本文化論のいくつかである。
◼️国民集団としての日本人の弱点ーーおみこしの熱狂と無責任 |
国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」初出2005年『樹をみつめて』所収) |
◼️被害者の尊重と利用されやすい庶民的正義感 |
被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。 社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』所収) |
◼️風をみながら舵を切るほかはない日本 |
中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。他山の石はチェコ、アイスランド、オランダ、せいぜい英国であり、決して中国や米国、ロシアではない。(中井久夫「日本人がダメなのは成功のときである」初出1994年『精神科医がものを書くとき』所収) |
◼️引き返せない道 |
近未来の変化 1、労働道徳の質的変化。統計によれば、うつ病のピークは四十年に二十代中ごろ、昭和六十年に五十台中ごろにある。これは同一集団が時間とともに高年齢に移動したに過ぎない。この特殊な年齢層の内容吟味は紙幅を超えるが、とにかくこの階層が舞台から消えるとともに、勤勉、集団との一体化、責任感過剰、謙譲、矛盾の回避などの徳目は、第二線に退く。かわって若干の移行期をおいて「変身」(変わり身の早さ)、「自己主張」「多能」などの性格が前面に出てくる。現在の韓国エリートの性格は将来の日本のエリート層の姿でありうる。これは歴史的推移であるとともに、終身雇用の衰退、企業買収、技術革新などの論理的帰結でもある。大方の予想に反して精神病は増加せず、むしろ軽症化に向うが、犯罪、スリルの愛好が増大する。 |
2、「普遍的労働者」の消滅。異能を持たない平凡な人がなるとされる一般的職業「サラリーマン」「労働者」が、意識としても、おそらく実態としても消滅しつつある。その帰納として、「ふつうの人」が暮らしにくくなる一時期が現れる(こういう時期は歴史上何度か現れた。ルネサンス、明治維新前後など)。また「労働組合」の存立基盤の危機である。〔・・・〕 3、階級相互の距離が増大する。新しい最上階級は相互に縁組みを重ね、社会を陰から支配する(フランスの二百家族のごときもの)。階級の維持は教育によって正当化され、税制や利益の接近度などによって保証され、限度を超えた階級上昇はいろいろな障害(たとえば直接間接の教育経費)によって不可能となる。中流階級は残存するが、国民総中流の神話は消滅する。この点では西欧型に近づく。労働者内部の階級分化も増大する(この点では必ずしも西欧型でない)。 |
4、天皇制はそのカリスマの相当を失い、新階級と合体する。世代交代とともに君が代や日の丸は次第に争点ではなくなり、旧右翼は消滅するが、“皇道派”に代わる“統制派”のごとき、天皇との距離を置いた新勢力が台頭する。〔・・・〕 5、抵抗はあっても外国人労働者の移入が行われ、国内の老人労働者、非組織労働者との格差がなくなる。〔・・・〕 |
6、一般に成長期は無際限に持続しないものである。ゆるやかな衰退(急激でないことを望む)が取って代わるであろう。大国意識あるいは国際国家としての役割を買って出る程度が大きいほど繁栄の時期は短くなる。しかし、これはもう引き返せない道である。能力(とくに人的能力)以上のことを買って出ないことが必要だろう。平均寿命も予測よりも早く低下するだろう。伝染病の流入と福祉の低下と医療努力の低下と公害物質の蓄積とストレスの増加などがこれに寄与する。ほどほどに幸福な準定常社会を実現し維持しうるか否かという、見栄えのしない課題を持続する必要がある。国際的にも二大国対立は終焉に近づきつつある。その場合に日本の地理的位置からして相対的にアジアあるいはロシアとの接近さえもが重要になる。しかし容易にアメリカの没落を予言すれば誤るだろう。アメリカは穀物の供給源、科学技術供給源、人類文化の混合の場として独自の位置を占める。危機に際しての米国の強さを軽視してはならない(依然として緊急対応力の最大の国家であり続けるだろう)。 |
(中井久夫「引き返せない道」(産業労働調査所よりの近未来のアンケートへの答え)初出1988年『精神科医がものを書くとき』所収) |
◼️大破局は目に見えない農耕社会民 |
農耕社会の強迫症親和性〔・・・〕彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年) |
◼️マージナルなものへのセンスの乏しさ |
(この執着気質者は)カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始する〔・・・〕。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』第2章、1982年) |
(分裂病親和者と執着気質者) |
※付記:労働集約的なムラ社会あるいは共感の共同体の特徴 |
日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。〔・・・〕 労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年) |
ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収) |