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2023年1月27日金曜日

ヴィスコンティの庭

 

Luchino Visconti, L'innocente





野ばらと人間の結婚 

この生垣をのぞく

女の庭


ーー西脇順三郎「アタランタのカリドン」



※ドガとモディリアーニの女の庭







陶器にも女人陶器といふ言葉までつかつてゐる程であるから、たとへば高麗青磁の釉触の面からも、人間にたとへると女のすぐれた肢体が感じられてゐて、それから離れては青磁のうつくしさが完う出来ない。(室生犀星「鬼籍の素陶」 昭和三十二年五月一日「芸術新潮」)

庭だとて風景だとて、結局氏の『生きる希み』が生み出した愛着であるかぎり、結局は人間の女の美しさに還つてゆくのである。(山本健吉「室生犀星ーー十二の肖像画」昭和三十七年)







人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくこともある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。


 再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。

私はここで、想い出すままに、私が絵のなかで出会った女たちについて、語ろうとした。その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。私は場面を解釈し、環境を想像し、時代を考え、私が今までに知っていたことの幾分かをそこに見出し、今まで知らなかった何かをそこに発見する。現実の女が、必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女とも同じではないように。(加藤周一『絵のなかの女たち』)