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2023年1月30日月曜日

文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかない

 


余この頃東京住民の生活を見るに、彼等は其生活について相応に満足と喜悦とを覚ゆるものの如く、軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、寧これを喜べるが如き状況なり(永井荷風「断腸亭日乗」1937年8月24日) 



しかし、この期に及んでも黙り続けてる連中ってのはどういうことなんだろうな、それなりにリッパな大学を出たように見えるインテリ坊や&お嬢さんたちまでさ、もう一年近くもたつのに。



私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」1979年)

けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987年)



土足を土足と感じない冷感症の人たちなのか、もともと権力の道具に専念してんのか、それともほかにワケがあるのか。どうも《菊池さんの言葉で言えば、「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」》(小林秀雄「菊池寛」)にしか見えないだな。最近の大学、とくに冷戦終結後の大学で学んだ人たちは、もっぱら仔羊教養のみを身につけるようになっているのではないか。



なぜ次のように率直に苛立てる専業主婦の「正しいおばさん」感性の人が若い人たちにはほとんど見当たらないなくなってしまったのか。





きみたちは何やってんのかね、細谷雄一やら鶴岡路人やらの御用国際政治学者らをいまだ放っておいて。なぜ学生たちはボイコット運動起こさないんだろうか?



きみたちはいつまで八百屋のおにいさん、八百屋のおねえさんやってんだろ?



第2次大戦が終わって、日本は降伏しました。武者小路実篤という有名な作家がいましたが、戦時中、彼は戦争をほぼ支持していたのです。ところが、戦争が終わったら、騙されていた、戦争の真実をちっとも知らなかったと言いました。南京虐殺もあれば、第一、中国で日本軍は勝利していると言っていたけれども、あんまり成功していなかった。その事実を知らなかったということで、彼は騙されていた、戦争に負けて呆然としていると言ったのです。


戦時中の彼はどうして騙されたかというと、騙されたかったから騙されたのだと私は思うのです。だから私は彼に戦争責任があると考えます。それは彼が騙されたからではありません。騙されたことで責任があるとは私は思わないけれども、騙されたいと思ったことに責任があると思うのです。彼が騙されたのは、騙されたかったからなのです。騙されたいと思っていてはだめです。武者小路実篤は代表的な文学者ですから、文学者ならば真実を見ようとしなければいけません。


八百屋のおじさんであれば、それは無理だと思います。NHK が放送して、朝日新聞がそう書けば信じるのは当たり前です。八百屋のおじさんに、ほかの新聞をもっと読めとか、日本語の新聞じゃだめだからインターナショナル・ヘラルド・トリビューンを読んだらいかがですかとは言えません。BBCは英語ですから、八百屋のおじさんに騙されてはいけないから、 BBC の短波放送を聞けと言っても、それは不可能です。


武者小路実篤の場合は立場が違います。非常に有名な作家で、だいいち、新聞社にも知人がいたでしょう、外信部に聞けば誰でも知っていることですから、いくらでも騙されない方法はあったと思います。武者小路実篤という大作家は、例えば毎日新聞社、朝日新聞社、読売新聞社、そういう大新聞の知り合いに実際はどうなっているんだということを聞けばいいのに、彼は聞かなかったから騙されたのです。なぜ聞かなかったかというと、聞きたくなかったからです。それは戦前の社会心理的状況ですが、今も変わっていないと思います。


知ろうとして、あらゆる手だてを尽くしても知ることができなければ仕方がない。しかし手だてを尽くさない。むしろ反対でした。すぐそこに情報があっても、望まないところには行かないのです。(加藤周一「第2の戦前・今日」2004年)



インターネットの時代でも八百屋は八百屋なのか、いやさらに悪くかつてより八百屋度が高くなっているのか。



フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさも進歩する! ということです。

Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès !


フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、紋切型の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの紋切型のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの紋切型はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。

Avec une passion méchante, Flaubert collectionnait les formules stéréotypées que les gens autour de lui prononçaient pour paraître intelligents et au courant. Il en a composé un célèbre 'Dictionnaire des idées reçues'. Servons-nous de ce titre pour dire : la bêtise moderne signifie non pas l'ignorance mais la non-pensée des idées reçues. La découverte flaubertienne est pour l'avenir du monde plus importante que les idées les plus bouleversantes de Marx ou de Freud. Car on peut imaginer l'avenir sans la lutte des classes et sans la psychanalyse, mais pas sans la montée irrésistible des idées reçues qui, inscrites dans les ordinateurs, propagées par les mass média, risquent de devenir bientôt une force qui écrasera toute pensée originale et individuelle et étouffera ainsi l'essence même de la culture euro-péenne des temps modernes. 

(ミラン・クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収)



やっぱり21世紀になって「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」はいっそう進歩したんだろうかね。