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2023年2月1日水曜日

ボワヨー・キュリエの悪臭

 

ぼくは性格が悪いからな。


彼は座って煙草をふかし続け、爪先をぶらぶら揺らしていた。そして他の人たちが話をしている最中も、自分が話をしている最中も、いつどこででもそうしていたように、他人の内面の透明な動きを想像しようと努め、ちょうど肘掛け椅子に座るように話相手の中に慎重に腰をおろして、その人のひじが自分の肘掛けになるように、自分の魂が他人の魂の中に入り込むようにした。(ナボコフ『賜物』)

私は悟ったのだ、この世の幸福とは観察すること、スパイすること、監視すること、自己と他者を穿鑿することであり、大きな、いくらかガラス玉に似た、少し充血した、まばたきをせぬ目と化してしまうことなのだと。誓って言うが、それこそが幸福というものなのである。(ナボコフ『目』)



ツイッターはとってもよくわかる装置だよ、他者の「メタ私」が。


他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」1990年)



本来は自分のメタ私を探るのが肝要なんだけどさ、これは難しいからアウレリウスの教えに反して、まずは他者のメタ私を観察する幸福に耽ってるのさ。


他人のなすあらゆる行為に際して自らつぎのように問うて見る習慣を持て。「この人はなにをこの行為の目的としているか」と。ただしまず君自身から始め、第一番に自分を取調べるがいい。(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳)



人はみなそれぞれの仕方で自分の都合のよい自己像に頼って生きているわけで、自分のリアルには耐えれないのさ。


万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている[Human being cannot endure very much reality] (エリオット「四つの四重奏」ーー中井久夫超訳「統合失調症の精神療法」より)



一度下手糞にーー露骨にーー暴いてしまって「精神分析に殺される!」とヒステリー発作を起こされたことがあるので、最近はやらないようにしてんだが、とはいえウズウズしてんだ。抑えるのに苦労してんだ、例えば最近なら、ウクライナ情勢変化に伴う国際政治学者らの発言の滑稽さにね。


なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった、というよりも、むしろそれは、特有の快楽を私にあたえるのでこれまでつねに別格の形で私の探求の目的になっていたもの、すなわち甲の存在にも乙の存在にも共通であるような点、といったほうがよかった。そんなもの、そんな点を認めるとき、はじめて私の精神は、突然よろこびにあふれて獲物を追いかけはじめるのだが、しかしそのときに追いかけているものは〔・・・〕、なかば深まったところ、物の表面それ自体からかなたの、すこし奥へ後退したところにあるのであった。

そして、それまでの私の精神といえば、たとえ私自身、表面活発に話していても――その生気がかえって精神の全面的な鈍磨を他の人々に被いかくしていて――そのかげで精神は眠っていたのであった。したがって、精神が深い点に到達するとき、存在の、表面的な、模写的な魅力は、私の興味からそれてしまうというわけだ、というのも、女の腹の艶やかな皮膚の下に、それを蝕む内臓の疾患を見ぬく外科医のように、もはや私はそのような表面の魅力にとどまる能力をもたなくなるからだった。Aussi le charme apparent, copiable, des êtres m'échappait parce que je n'avais plus la faculté de m'arrêter à lui, comme le chirurgien qui, sous le poli d'un ventre de femme, verrait le mal interne qui le ronge. (プルースト「見出されたとき」)



人はみなそれぞれ臭いんだよ、内臓を暴けば。


最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……[so daß ich die Nähe oder – was sage ich? – das Innerlichste, die »Eingeweide« jeder Seele physiologisch wahrnehme – rieche...]

わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗り(育ち)によって隠れている。

Ich habe an dieser Reizbarkeit psychologische Fühlhörner, mit denen ich jedes Geheimnis betaste und in die Hand bekomme: der viele verborgene Schmutz auf dem Grunde mancher Natur, vielleicht in schlechtem Blut bedingt, aber durch Erziehung übertüncht, wird mir fast bei der ersten Berührung schon bewußt. 


そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)


何たって糞袋だからな、人間の本質は。


その糞尿譚では、ラブレーがよく使う言葉で「ボワヨー・キュリエ」(boyau culier)というのがあるんですよ。解剖学的にいえば直腸のことなんでしょうが、ぼくは『糞袋』と訳すんです。そこでぼくがラブレーに一番打たれるのは、お前たちがどんなに高尚なことを言おうと、どんなに気取って深刻面をしようと、みな「糞袋」をもっている人間だということを忘れるなということを言っている点ですね。彼の作品は全体が、そのことのヴァリエションじゃないかと思うんです。神学者に対しても、宮廷の貴婦人に対しても、彼はそれをサチール(風刺)の物差しとしておりますね。カトリック教会に対しても、新教会に対しても、そんな無理をいってもだめですよ。人間は糞袋だといっているわけです。(渡辺一夫「ラブレーを読む」開高健との対談『午後の愉しみ』所収)




そこのキミ! けげんそうな眼差しの下手な役者やったって無駄な抵抗だぜ。



夕闇がおりてきた、ひきかえさなくてはならなかった、私はエルスチールを彼の別荘のほうに送っていった、そのとき突然、ファウストのまえに立ちあらわれるメフィストフェレスのように、通路の向こうの端にーー私のような病弱者、知性と苦しい感受性との過剰者には、およそ縁のない、ほとんど野蛮残酷ともいうべき生活力、私の気質とは正反対な気質の、非現実的な、悪魔的な客観化であるかのようにーーほかのどんなものとも混同することのできないエッセンスの斑点のいくつか、あの少女たちの植虫群体をなすさんご虫のいくつかが、ぱっとあらわれたが、彼女らは私を見ないふりをしながら、私に皮肉な判断をくだそうとしていることはうたがいをいれなかった。〔・・・〕

折から私たちが通りかかっているアンティックの店のショー・ウィンドーのほうへ、まるで急にそれに興味をおぼえたように、身をかがめたが、そんな少女たちよりもほかのことを考えることができる、というふりをするのは自分でもわるい気がしなかった、そしてエルスチールが私を紹介しようとして呼ぶとき、おどろきそのものをあらわしているのではなく、おどろいたようすをしたいという欲望をあらわしている、あの一種のけげんそうなまなざしを自分がするだろうことを、私はすでにひそかに予知していたしーーそんな場合、誰しもわれわれは下手な役者であり、相手の傍観者は上手な人相見だ[et je savais déjà obscurément que quand Elstir m'appellerait pour me présenter, j'aurais la sorte de regard interrogateur qui décèle non la surprise, mais le désir d'avoir l'air surpris – tant chacun est un mauvais acteur ou le prochain un bon physiognomoniste]ーーまた指で自分の胸をさしながら、「私をお呼びですか?」とたずね、知りたくもない人たちに紹介されるために、古陶器の鑑賞からひきはなされた不快を顔につめたくかくし、従順と素直とに頭をたれ、いそいで自分が走ってゆくであろうことを、私は予知していた。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」井上究一郎訳)