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2023年2月1日水曜日

もう騙されたくなかった

 

ドゥルーズがサラッと書いているが、プルーストの核心のひとつは間違いなくここにある。

愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない[les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime](ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年)



これは直接的には次の文に由来する。


私がジルベルトに恋をして、われわれの恋はその恋をかきたてる相手の人間に属するものではないことを最初に知って味わったあの苦しみ[cette souffrance, que j'avais connue d'abord avec Gilberte, que notre amour n'appartienne pas à l'être qui l'inspire](プルースト「見出された時」)


このたぐいの記述はプルーストにはふんだんにあるが、例えば次の二文を組み合わせて読んだらいい。

ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける[Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. ](プルースト「逃げ去る女」)

そのようにして、アルベルチーヌへの私の愛は、それがどのような差異を見せようとも、ジルベルトへの私の愛のなかにすでに書きこまれていた……[Ainsi mon amour pour Albertine, et tel qu'il en différa, était déjà inscrit dans mon amour pour Gilberte ...](プルースト「見出された時」)



この愛する理由は愛の対象にはない、とは愛人には限らないので、例えば自然や芸術への愛でも同様。



われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている[toute impression est double, à demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-mêmes par une autre moitié]。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」)





次の文は折に触れて何度も繰り返し引用しているが、井上究一郎訳では、《またしてもまんまとだまされたくはなかった》となっている「もう騙されたくなかった[Je ne voulais pas me laisser leurrer une fois de plus]」の一節は決定的な箇所。


◼️もう騙されたくなかった[Je ne voulais pas me laisser leurrer une fois de plus]

私はつぎのことを知っていたからだ、――バルベックの美は、一度その土地に行くともう私には見出されなかった、またそのバルベックが私に残した回想の美も、もはやそれは二度目の逗留で私が見出した美ではなかった、ということを。私はあまりにも多く経験したのだった、私自身の奥底にあるものに、現実のなかで到達するのが不可能なことを。また、失われた時を私が見出すであろうのは、バルベックへの二度の旅でもなければ、タンソンヴィルに帰ってジルベルトに会うことでもないのと同様に、もはやサン・マルコの広場の上ではないということを。また、それらの古い印象が、私自身のそとに、ある広場の一角に、存在している、という錯覚をもう一度私の起こさせるにすぎないような旅は、私が求めている方法ではありえない、ということを。

je savais que la beauté de Balbec, je ne l'avais pas trouvée quand j'y étais allé, et celle même qu'il m'avait laissée, celle du souvenir, ce n'était plus celle que j'avais retrouvée à mon second séjour. J'avais trop expérimenté l'impossibilité d'atteindre dans la réalité ce qui était au fond de moi-même. Ce n'était pas plus sur la place Saint-Marc que ce n'avait été à mon second voyage à Balbec, ou à mon retour à Tansonville, pour voir Gilberte, que je retrouverais le Temps Perdu, et le voyage que ne faisait que me proposer une fois de plus l'illusion que ces impressions anciennes existaient hors de moi-même, au coin d'une certaine place, ne pouvait être le moyen que je cherchais. 


またしてもまんまとだまされたくはなかった、なぜなら、いまの私にとって重大な問題は、これまで土地や人間をまえにしてつねに失望してきたために(ただ一度、ヴァントゥイユの、演奏会用の作品は、それとは逆のことを私に告げたように思われたが)、とうてい現実化することが不可能だと思いこんでいたものにほんとうに自分は到達できるのかどうか、それをついに知ることであったからだ。

Je ne voulais pas me laisser leurrer une fois de plus, car il s'agissait pour moi de savoir enfin s'il était vraiment possible d'atteindre ce que, toujours déçu comme je l'avais été en présence des lieux et des êtres, j'avais (bien qu'une fois la pièce pour concert de Vinteuil eût semblé me dire le contraire) cru irréalisable.


それゆえ私は、無益におわると長いまえから私にわかっている手にのって、また一つよけいな経験を試みようとはしなかった。私が固定させようとつとめているいくつかの印象は、その場の接触でじかにたのしもうとすると、消えうせるばかりであり、直接のたのしみからそれらの印象を生まれさせることができたためしはなかった。それらの印象を、よりよく味わうただ一つの方法は、それらが見出される場所、すなわち私自身のなかで、もっと完全にそれらを知る努力をすること、それらをその深い底の底まであきらかにするように努力することだった。

Je n'allais donc pas tenter une expérience de plus dans la voie que je savais depuis longtemps ne mener à rien. Des impressions telles que celles que je cherchais à fixer ne pouvaient que s'évanouir au contact d'une jouissance directe qui a été impuissante à les faire naître. La seule manière de les goûter davantage c'était de tâcher de les connaître plus complètement là où elles se trouvaient, c'est-à-dire en moi-même, de les rendre claires jusque dans leurs profondeurs. 

(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)



これらをしっかりフォローしているかだな、プルーストの読み手は。愛する理由の見出される場所、すなわち私自身のなか》を。例えば、プルーストを愛する理由はプルーストにはない。



作家の著書は一種の光学器械[instrument d'optique]にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。(プルースト「見出された時」)

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋[l'opticien de Combray]が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡[verres grossissants]でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段[le moyen de lire en eux-mêmes]を提供する、そういうものでしかないだろうから。(プルースト「見出された時」)



このところ何度か「さんざしの小道」をめぐる引用しているが、プルーストにおいて繰り返されるさんざしへの愛も、「愛する理由はさんざしにはない」んだよ、そこを間違えちゃいけない。さんざしへの排他的な愛は、なにか他のものへの愛である、ーー《ある人へのもっとも排他的な愛は、常になにか他のものへの愛である[L’amour le plus exclusif pour une personne est toujours l'amour d’autre chose]》 (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)



そしてこの私自身のなかにある愛する理由の原因はフロイトラカンにおいてはリビドーの固着(欲動の固着=享楽の固着)だ。



愛の条件は、初期幼児期のリビドーの固着が原因となっている[Liebesbedingung (…) welche eine frühzeitige Fixierung der Libido verschuldet]( フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について』1922年)


忘れないようにしよう、フロイトが明示した愛の条件のすべてを、愛の決定性のすべてを。[N'oublions pas … FREUD articulables…toutes les Liebesbedingungen, toutes les déterminations de l'amour]  (Lacan, S9, 21  Mars 1962)

愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである[L'amour est donc toujours répétition, (…) Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour.] (David Halfon,「愛の迷宮Les labyrinthes de l'amour 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015)


分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

精神分析における主要な現実界の顕れは、固着としての症状である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion,](Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)



固着は、或る一定の強度をもった出来事に遭遇しての身体の上へのリビドーの刻印であり、フロイトの定義において《自我への傷》。先に掲げたプルーストの《われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷》と等置しうる。


ロラン・バルトの言い方なら「身体の記憶」。


私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]〔・・・〕

匂い、疲れ、声の響き、流れ、光、リアルから来るあらゆるものは、どこか無責任で、失われた時の記憶を後に作り出す以外の意味を持たない[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières, tout ce qui, du réel, est en quelque sorte irresponsable et n'a d'autre sens que de former plus tard le souvenir du temps perdu ]〔・・・〕

幼児期の国を読むとは、身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだ[Car « lire » un pays, c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps. ](ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)



身体の記憶とは、私の享楽の身体[mon corps de jouissance]の記憶でもある。


私に快楽を与えたテクストを《分析》しようとする時、いつも私が見出すのは私の《主体性》ではない。私の《個体》である。私の身体を他の身体から切り離し、固有の苦痛、あるいは、快楽を与える与件である。私が見出すのは私の享楽の身体である。

Chaque fois que j'essaye d'"analyser" un texte qui m'a donné du plaisir, ce n'est pas ma "subjectivité" que je retrouve, c'est mon "individu", la donnée qui fait mon corps séparé des autres corps et lui approprie sa souffrance et son plaisir: c'est mon corps de jouissance que je retrouve.


そして、この享楽の身体はまた私の歴史的主体である。なぜなら、伝記的、歴史的、神経症的要素(教育、社会階級、小児的形成、等々)が極めて微妙に結合しているからこそ、私は(文化的)快楽と(非文化的)享楽の矛盾した働きを調整するのであり、また、余りに遅く来たか、あるいは、余りに早く来たか(この余りには未練や失敗や不運を示しているのではなく、単にどこにもない場所に招いているだけだ)、現に所を得ていない主体、時代錯誤的な、漂流している主体として自分自身を書くからである。

Et ce corps de jouissance est aussi mon sujet historique; car c'est au terme d'une combinatoire très fine d'éléments biographiques, historiques, sociologiques, névrotiques (éducation, classe sociale, configuration infantile, etc.) que je règle le jeu contradictoire du plaisir (culturel) et de la jouissance (inculturelle), et que je m'écris comme un sujet actuellement mal placé, venu trop tard ou trop tôt (ce trop ne désignant ni un regret ni une faute ni une malchance, mais seulement invitant à une place nulle) : sujet anachronique, en dérive (ロラン・バルト『テキストの快楽』1973年)



享楽の身体の別名はもちろんリビドーの身体(欲動の身体)だ。