ドゥルーズがサラッと書いているが、プルーストの核心のひとつは間違いなくここにある。 |
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愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない[les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime](ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』第2版、1970年) |
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これは直接的には次の文に由来する。 |
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私がジルベルトに恋をして、われわれの恋はその恋をかきたてる相手の人間に属するものではないことを最初に知って味わったあの苦しみ[cette souffrance, que j'avais connue d'abord avec Gilberte, que notre amour n'appartienne pas à l'être qui l'inspire](プルースト「見出された時」) |
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このたぐいの記述はプルーストにはふんだんにあるが、例えば次の二文を組み合わせて読んだらいい。 |
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ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける[Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. ](プルースト「逃げ去る女」) |
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そのようにして、アルベルチーヌへの私の愛は、それがどのような差異を見せようとも、ジルベルトへの私の愛のなかにすでに書きこまれていた……[Ainsi mon amour pour Albertine, et tel qu'il en différa, était déjà inscrit dans mon amour pour Gilberte ...](プルースト「見出された時」) |
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この愛する理由は愛の対象にはない、とは愛人には限らないので、例えば自然や芸術への愛でも同様。
次の文は折に触れて何度も繰り返し引用しているが、井上究一郎訳では、《またしてもまんまとだまされたくはなかった》となっている「もう騙されたくなかった[Je ne voulais pas me laisser leurrer une fois de plus]」の一節は決定的な箇所。
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これらをしっかりフォローしているかだな、プルーストの読み手は。愛する理由の《見出される場所、すなわち私自身のなか》を。例えば、プルーストを愛する理由はプルーストにはない。
作家の著書は一種の光学器械[instrument d'optique]にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。(プルースト「見出された時」) |
私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋[l'opticien de Combray]が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡[verres grossissants]でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段[le moyen de lire en eux-mêmes]を提供する、そういうものでしかないだろうから。(プルースト「見出された時」) |
このところ何度か「さんざしの小道」をめぐる引用しているが、プルーストにおいて繰り返されるさんざしへの愛も、「愛する理由はさんざしにはない」んだよ、そこを間違えちゃいけない。さんざしへの排他的な愛は、なにか他のものへの愛である、ーー《ある人へのもっとも排他的な愛は、常になにか他のものへの愛である[L’amour le plus exclusif pour une personne est toujours l'amour d’autre chose]》 (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)
そしてこの私自身のなかにある愛する理由の原因はフロイトラカンにおいてはリビドーの固着(欲動の固着=享楽の固着)だ。
愛の条件は、初期幼児期のリビドーの固着が原因となっている[Liebesbedingung (…) welche eine frühzeitige Fixierung der Libido verschuldet]( フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について』1922年) |
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忘れないようにしよう、フロイトが明示した愛の条件のすべてを、愛の決定性のすべてを。[N'oublions pas … FREUD articulables…toutes les Liebesbedingungen, toutes les déterminations de l'amour] (Lacan, S9, 21 Mars 1962) |
愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである[L'amour est donc toujours répétition, (…) Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour.] (David Halfon,「愛の迷宮Les labyrinthes de l'amour 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015) |
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分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
精神分析における主要な現実界の顕れは、固着としての症状である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion,](Colette Soler, Avènements du réel, 2017年) |
固着は、或る一定の強度をもった出来事に遭遇しての身体の上へのリビドーの刻印であり、フロイトの定義において《自我への傷》。先に掲げたプルーストの《われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷》と等置しうる。
ロラン・バルトの言い方なら「身体の記憶」。
私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]〔・・・〕 匂い、疲れ、声の響き、流れ、光、リアルから来るあらゆるものは、どこか無責任で、失われた時の記憶を後に作り出す以外の意味を持たない[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières, tout ce qui, du réel, est en quelque sorte irresponsable et n'a d'autre sens que de former plus tard le souvenir du temps perdu ]〔・・・〕 幼児期の国を読むとは、身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだ[Car « lire » un pays, c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps. ](ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年) |
身体の記憶とは、私の享楽の身体[mon corps de jouissance]の記憶でもある。 |
私に快楽を与えたテクストを《分析》しようとする時、いつも私が見出すのは私の《主体性》ではない。私の《個体》である。私の身体を他の身体から切り離し、固有の苦痛、あるいは、快楽を与える与件である。私が見出すのは私の享楽の身体である。 Chaque fois que j'essaye d'"analyser" un texte qui m'a donné du plaisir, ce n'est pas ma "subjectivité" que je retrouve, c'est mon "individu", la donnée qui fait mon corps séparé des autres corps et lui approprie sa souffrance et son plaisir: c'est mon corps de jouissance que je retrouve. |
そして、この享楽の身体はまた私の歴史的主体である。なぜなら、伝記的、歴史的、神経症的要素(教育、社会階級、小児的形成、等々)が極めて微妙に結合しているからこそ、私は(文化的)快楽と(非文化的)享楽の矛盾した働きを調整するのであり、また、余りに遅く来たか、あるいは、余りに早く来たか(この余りには未練や失敗や不運を示しているのではなく、単にどこにもない場所に招いているだけだ)、現に所を得ていない主体、時代錯誤的な、漂流している主体として自分自身を書くからである。 |
Et ce corps de jouissance est aussi mon sujet historique; car c'est au terme d'une combinatoire très fine d'éléments biographiques, historiques, sociologiques, névrotiques (éducation, classe sociale, configuration infantile, etc.) que je règle le jeu contradictoire du plaisir (culturel) et de la jouissance (inculturelle), et que je m'écris comme un sujet actuellement mal placé, venu trop tard ou trop tôt (ce trop ne désignant ni un regret ni une faute ni une malchance, mais seulement invitant à une place nulle) : sujet anachronique, en dérive (ロラン・バルト『テキストの快楽』1973年) |
享楽の身体の別名はもちろんリビドーの身体(欲動の身体)だ。