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2023年2月4日土曜日

許容してはならない米ネオコン

 

もともと戦後体制は、1929年恐慌以後の世界資本主義の危機からの脱出方法としてとらえられた、ファシズム、共産主義、ケインズ主義のなかで、ファシズムが没落した結果である。それらの根底に「世界資本主義」の危機があったことを忘れてはならない。それは「自由主義」への信頼、いいかえれば、市場の自動的メカニズムへの信頼をうしなわせめた。国家が全面的に介入することなくしてやって行けないというのが、これらの形態に共通する事態なのだ。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)


この冷戦終了を契機に柄谷が言っていることはまずはこういうことだ。




1990年以降はクエッションマークにしたが、1990年に共産主義は滅びたのだから、ケインズ主義のみが生き延びたのだろうか。いやそうではない。



ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。

今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない。(中井久夫「私の「今」」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)



ケインズ主義は共産主義あってのものだった。共産主義が滅びることでむき出しの市場原理主義ーー事実上の世界資本主義ーーに回帰したのが、1990年以降、この2023年にも続いている世界の構造である。





欧米資本主義ほど「悪性の」強制加入力を持つ人間的事象は他にほとんど類をみないことである(一九八九ー九〇年にはついにこの力の場の中に"社会主義"諸国がよろめきつつ引き入れらた)。(中井久夫『治療文化論』1990年)

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年)


欧米流世界資本主義=市場原理主義の別名が新自由主義、米国一極集中の帝国主義である。


「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009年)



この事実上、米帝国主義としての「新自由主義」と呼ばれる市場原理主義のさらなる別の名は、ベンサム主義、後は野となれ山となれ主義である。



◼️資本制生産様式におけるベンサム主義ーー他人を害することによって自分を利する(人間による人間の搾取) ーーの必然性

(資本制生産様式において)労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の領域は、実際、天賦人権の真の楽園であった。

ここで支配しているのは、自由、平等、所有、およびベンサムだけである[Was allein hier herrscht, ist Freiheit, Gleichheit, Eigentum und Bentham.]


自由! なぜなら、商品──例えば労働力──の買い手と売り手は、彼らの自由意志によってのみ規定されているのだから。彼らは、自由で法的に同じ身分の人格として契約する。契約は、彼らの意志に共通な法的表現を与えるそれの最終成果である。


平等! なぜなら彼らは商品所有者としてのみ相互に関係し、 等価物を等価物と交換するのだから。


所有! なぜなら誰もみな、 自分のものだけを自由に処分するのだから。

ベンサム! なぜなら双方のいずれにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。彼らを結びつけて一つの関係のなかに置く唯一の力は、彼らの自己利益、彼らの特別利得、彼らの私益という力だけである。

Bentham! Denn jedem von den beiden ist es nur um sich zu tun. Die einzige Macht, die sie zusammen und in ein Verhältnis bringt, ist die ihres Eigennutzes, ihres Sondervorteils, ihrer Privatinteressen. (マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化 Die Verwandlung von Geld in Kapital」1867年)


功利理論[Nützlichkeitstheorie」においては、これらの大きな諸関係にたいする個々人の地位、個々の個人による目前の世界の私的搾取[Privat-Exploitation]以外には、いかなる思弁の分野も残っていなかった。この分野についてベンサムとその学派は長い道徳的省察をやった。(マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」1846年)

言語における仮面が唯一意味をもつのは、無意識的あるいは、実際の仮面の故意の表出のときのみである。この場合、功利関係はきわめて決定的な意味をもっている。すなわち、私は他人を害することによって自分を利する(人間による人間の搾取) ということである。

Die Maskerade in der Sprache hat nur dann einen Sinn, wenn sie der unbewußte oder bewußte Ausdruck einer wirklichen Maskerade ist. In diesem Falle hat das Nützlichkeitsverhältnis einen ganz bestimmten Sinn, nämlich den, daß ich mir dadurch nütze, daß ich einem Andern Abbruch tue (exploitation de l'homme par l'homme <Ausbeutung des Menschen durch den Menschen>); (マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」1845-1846 年)

この相互搾取理論は,ベンサムがうんざりするほど詳論したものだ[Wie sehr diese Theorie der wechselseitigen Exploitation, die Bentham bis zum Überdruß ausführte, ](マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」 1846年)


仮に意識的にはそれを知らなくても、彼らは無意識的にベンサム主義者になるーー《彼らはそれを知らないが、そうする[ Sie wissen das nicht, aber sie tun es]》(マルクス『資本論』第1巻「一般的価値形態から貨幣形態への移行」)


“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”(後は野となれ山となれ!)、これがすべての資本家およびすべての資本主義国民のスローガンである[Après moi le déluge! ist der Wahlruf jedes Kapitalisten und jeder Kapitalistennation. ](マルクス『資本論』第1巻「絶対的剰余価値の生産」)



われわれは皆このベンサム主義、「人間による人間の搾取」主義の時代に生きている。現在、米国ネオコン、その軍産複合体がやっているのはこの「後は野となれ山となれ!」に他ならない。



ゴンザロ・リラ Gonzalo Lira

@GonzaloLira1968

グローバルアメリカ帝国は、世界中で混乱を引き起こし、それをルールに基づく秩序と呼んでいる。理解すればするほど、許せなくなる。

The Global American Empire creates chaos all around the world―and calls it the Rules Based Order. The more you understand, the less you forgive.


このゴンザーロ・リラが簡潔に言っている内容は、現在の世界の構造をしかと見定めている者たちにとっては、その立場の相違を超えて、もはや「常識」である➡︎米国の公式政策ネオコンの帰結



ネオコンの主要なメッセージは、米国は世界のあらゆる地域で軍事的に優位に立たなければならず、いつの日か米国の世界または地域の支配に挑戦する可能性のある地域の新興勢力、特にロシアと中国に立ち向かわなければならない、というものである。この目的のために、米国の軍事力は世界中の何百もの軍事基地にあらかじめ配置され、米国は必要に応じて選択の戦争を導く準備をしなければならない。国連は、米国の目的に役立つときだけ、米国が利用するものだ。〔・・・〕

ネオコンは、2008年にジョージ・W・ブッシュ・ジュニアの下で米国の公式政策となる以前から、ウクライナへのNATO拡大を唱えていた[The neocons championed NATO enlargement to Ukraine even before that became official US policy under George W. Bush, Jr. in 2008.]。彼らは、ウクライナのNATO加盟が米国の地域的・世界的支配の鍵になると考えていたのである。

(ジェフリー・サックス「ウクライナは最新のネオコン大災害」

Ukraine is the latest neocon disaster By Jeffrey Sachs June 28, 2022



アメリカがかくも厚顔無恥で、平然と二重基準に訴えるのは、本を正せば、「アメリカだけは特別・例外」という覇権思想が脳みそに巣くっているためだ。その本質は自己優越論であり、アメリカは他の国々とは違い、「偉大であることが運命づけられ」、「世界を導かなければならない」ということにある。しかし、歴史が証明しているとおり、このイデオロギーは虚妄であるだけに留まらず、極めて有害でさえある。アメリカの著名な経済学者ジェフリー・ザックスは著書『新しい外交政策:アメリカの例外主義を超えて』の中で次のように指摘している。すなわち、各国の利益は密接に関わり合い、運命を共にしており、歴史上のいかなる時にも増して国際協力を強め、人類社会が直面するリスクと挑戦に共同で対処するべき時に、アメリカ政府は独り我が道を行き、勝手に国際ルールを破壊している。これは「アメリカ例外主義」の表れであり、自らを深刻に害し、世界にとっては非常に危険なことである。

事実が証明しているとおり、二重基準を奉じ、「アメリカは特別・例外」を行うアメリカは「ならず者国家」になるだけである。真のスタンダードに対しては、世人の胸の内には一定のはかりがある。アメリカには以下のことを勧告する。「二重基準」をやめ、国際的に公認されたルール及びスタンダードを遵守する正しい軌道に戻ることだ。さもなければ、国家のイメージを台無しにし、国際的信用が完全に失われるだけである。(解放軍報「アメリカの二重基準「ルール」は世界が乱れる源」(中国語原題:"美式"规则"成世界乱源|一,言行相悖虚成性") 鈞声署名論評 2022年7月4日)







https://twitter.com/Tamama0306/status/1621141080086577156