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2023年2月16日木曜日

身体の三区分あるいは身体の多重性

 

初心者向け「父の名/母の名」で示した次の図は、基本的には「自我/エス」だよ。


まず下辺の欲動の身体(=享楽の身体)はエス。


エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)



そして上辺の言語の大他者は「基本的には」自我。



フロイトの自我と快原理、そしてラカンの大他者のあいだには結びつきがある[il y a une connexion entre le moi freudien, le principe du plaisir et le grand Autre lacanien] (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 17/12/97)


というのは、ラカンは自我を想像界、言語を象徴界(大他者)とはしたが、ラカンの思考における想像界は常に象徴界の言語に支配されているから。


想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique](Lacan, S2, 29 Juin 1955)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)




先の初心者版では省いたが、身体に関して「厳密には」いくらか注意しなければならないことがある。それは、フロイトにおいて自我自体、身体自我であることだ。自我の治外法権にある「エスの欲動の身体=異者としての身体」に対する自我の身体。


◼️身体自我(自我の身体)と異者としての身体(エスの欲動の身体)

自我は何よりもまず身体的自我である[Das Ich ist vor allem ein körperliches]〔・・・〕意識的自我は何よりもまず身体自我である[bewußten Ich ausgesagt haben, es sei vor allem ein Körper-Ich. ](フロイト『自我とエス』第2章、1923年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)



さらに現代ラカン派では三区分である。


◼️想像界の身体(ナルシシズムの身体)

(初期ラカンの)鏡像の身体、ラカンはその身体をナルシシズム理論から解読した。いやむしろ鏡像段階からナルシシズム理論を解読した。したがって本質的にイマジネールな身体である[le corps du Stade du miroir, que Lacan déchiffre à partir de la théorie du narcissisme, ou plutôt : il déchiffre la théorie du narcissisme à partir du Stade du miroir. Donc c'est essentiellement un corps imaginaire. ](J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN -09/03/2011)


◼️象徴界の身体(欲望の身体=ヒステリーの身体)

象徴界の身体、すなわち欲望の身体は、フロイトがヒステリーの臨床において出会った身体である。 ヒステリーの身体は、解剖学的身体でもなく、知覚的身体でもないことをフロイトフロイト説明している。それは表象の身体である[Ce corps symbolique,…ce corps du désir, c'est le corps que Freud rencontre dans la clinique de l'hystérie. il explique comment le corps de l'hystérique, n'est ni le corps de l'anatomie, ni le corps de la perception. C'est le corps de la représentation. ](Lieve Billiet, De l’Un de l’unité à l’Un de l’événement de corps, 2021)

ヒステリーは、あたかも解剖学的身体が存在しないかのように振る舞う。この身体は言説に囚われた身体である[l'hystérie …fait comme si l'anatomie n'existait pas…Ce corps…le corps pris dans le discours]Florencia Farìas, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin, 2010)


※「欲望の身体=ヒステリーの身体」だが、ラカン派におけるヒステリーは通念としての「ヒステリー」とは異なるので注意。


私は完全なヒステリーだ。つまり症状のないヒステリーだ[je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Lacan, S24, 14 Décembre 1976)

ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。〔・・・〕思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリーそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「ヒステリー の言説The hysteric's discourse 」1982年)



◼️現実界の身体(欲動の身体=穴の身体=異者としての身体)

欲動の身体は穴の身体である[le corps de la pulsion est …un corps de trous](Lieve Billiet, De l’Un de l’unité à l’Un de l’événement de corps, 2021)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)


ーー《現実界のなかの異者概念(異者身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ]》(J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



なおラカンの穴はトラウマのことであり、フロイトの異者としての身体はトラウマの身体である。

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛みを呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)


ーーレミニサンスとはフロイト用語において反復強迫と等価である。


そしてフロイトラカンにおけるトラウマは身体の出来事あるいは固着を意味する。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕

このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である。la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021)



要するに次のようになる。




先に示したように想像界は象徴界(言語)によって構造化されている。つまりファルス化されている。


ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  (ラカン, S18, 09 Juin 1971)


この意味でナルシシズムの身体も欲望の身体もファルス化された身体である。




以上、「欲動の身体」が身体の基盤だが、それ以外に欲動に対する防衛(あるいは穴埋め)としての「ナルシシズムの身体」と「欲望の身体」があるのである(防衛とは抑圧のことでもある[参照])。


欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である[le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance].( Lacan, E825、1960)

愛は穴を穴埋めする[l'amour bouche le trou.](Lacan, S21, 18 Décembre 1973)



※ナルシシズムの身体は、「愛の身体」とも言いうる。


ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである[il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,…  l'amour c'est le narcissisme  ](Lacan, S15, 10  Janvier  1968)



これらはあくまでフロイトラカンの区分であって他にも種々の分け方があっていい。


例えば中井久夫はなんと29区分している。


◼️中井久夫「身体の多重性」(『徴候・記憶・外傷』所収、2004年)

A 心身一体的身体

(1)成長するものとしての身体

(2)住まうものとしての身体

(3)人に示すものとしての身体

(4)直接眺められた身体(クレー的身体)

(5)鏡像身体(左右逆、短足など)

B 図式〔シューマ〕的身体

(6)解剖学的身体(地図としての身体)

(7)生理学的身体(論理的身体)

(8)絶対図式的身体(離人、幽体離脱の際に典型的)

C トポロジカルな身体

(9)内外の境界としての身体(「袋としての身体」)

(10)快楽・苦痛・疼痛を感じる身体

(11)兆候空間的身体

(12)他者のまなざしによる兆候空間的身体

D デカルト的・ボーア的身体

(13)主体の延長としての身体

(14)客体の延長としての身体

E 社会的身体

(15)奴隷的道具としての身体

(16)慣習の受肉体としての身体(マルセル・モース)

(17)スキルの実現に奉仕する身体

(18)「車幅感覚」的身体(ホールのプロキセミックス、安永のファントム空間)

(19)表現する身体(舞踏、身体言語)

(20)表現のトポスとしての身体(ミミクリー、化粧、タトーなど)

(21)歴史としての身体(記憶の索引としての身体)

(22)競争の媒体としての身体(スポーツを含む)

(23)他者と相互作用し、しばしば同期する身体(手をつなぐ、接吻する、などなど)

F 生命感覚的身体

(24)エロス的に即融する身体(プロトペイシックな身体)

(25)図式触覚的(エピクリティカルな身体)

(26)嗅覚・味覚・運動感覚・内臓感覚・平行感覚的身体

(27)生命感覚の湧き口としての身体(その欠如態が「生命飢餓感」(岸本英夫)

(28)死の予兆としての身体(老いゆく身体――自由度減少を自覚する身体)

(29)暴力としての身体(暴力をふるうことによってバラバラになりかけている何かがその瞬間だけ統一される。ひとつの集団が暴力に対して暴力をもって反応する時にはその集団としてのまとまりが生まれる)



実に網羅的であって、最後の「暴力としての身体」は「戦争の身体」でもあるだろう。


行動には、能動感はもちろん、精神統一感、自己統一感、心身統一感、自己の単一感、唯一無二感がある。さらに、逆説的なことであるが、行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。時代小説を読んでも、このモードの変化とそれに伴うカタルシスは理解できる。読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その限りであるが精神衛生によいのである。


行動化は集団をも統一する。二〇〇一年九月十一日のWTCへのハイジャック旅客機突入の後、米国政府が議論を尽くすだけで報復の決意を表明していなければ、アメリカの国論は乱れて手のつけようがなくなっていたかもしれない。もっとも、だからといって十月七日以後のアフガニスタンへの介入が最善であるかどうかは別問題である。副作用ばかり多くて目的を果たしたとはとうてい言えない。しかし国内政治的には国論の排他的統一が起こった。「事件の二週間以内に口走ったことは忘れてくれ」とある実業家が語っていたくらいである。すなわち、アメリカはその能動性、統一性の維持のために一時別の「モード」に移行したのである。


DVにおいても、暴力は脳/精神の低い水準での統一感を取り戻してくれる。この統一感は、しかし、その時かぎりであり、それも始まりのときにもっとも高く、次第に減る。戦争の高揚感は一ヶ月で消える。暴力は、終えた後に自己評価向上がない。真の満足感がないのである。したがって、暴力は嗜癖化する。最初は思い余ってとか論戦に敗れてというそれなりの理由があっても、次第次第に些細な契機、ついにはいいがかりをつけてまでふるうようになる。また、同じ効果を得るために次第に大量の暴力を用いなければならなくなる。すなわち、同程度の統一感に達するための暴力量は無限に増大する。さらに、嗜癖にはこれでよいという上限がない。嗜癖は、睡眠欲や食欲・性欲と異なり、満たされれば自ずと止むという性質がなく、ますます渇きが増大する。

(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)




なおこの「暴力としての身体」は、フロイトラカンにおける欲動の身体の特徴のひとつでもある。

荒々しい「自我によって飼い馴らされていない欲動蠢動 」を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である[Das Glücksgefühl bei Befriedigung einer wilden, vom Ich ungebändigten Triebregung ist unvergleichlich intensiver als das bei Sättigung eines gezähmten Triebes.] (フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年)

欲動蠢動、この蠢動は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである [la Triebregung …Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute](ラカン, S10, 14  Novembre  1962)



そしてニーチェの力の意志の身体の特徴でもある。


私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 [unbändigen Gewalt dieses Triebs]に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための防衛手段から生じたものであることを見てとった[Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs – ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen. ](ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第3節『偶然の黄昏』所収、1888年)

すべての欲動の力は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない[Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...](ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)