中井久夫の「戦争と平和についての観察」ーーのちに「戦争と平和 ある観察」と改題ーーは次のように始まる。
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1.はじめに 人類がまだ埋葬していないものの代表は戦争である。その亡霊は白昼横行しているように見える。
精神医学と犯罪学は個々の戦争犯罪人だけでなく戦争と戦争犯罪をも研究の対象にするべきであるとエランベルジェ先生は書き残された。人類はなぜ戦争するのか、なぜ平和は永続しないのか。個人はどうして戦争に賛成し参加してしまうのか。残酷な戦闘行為を遂行できるのか。どうして戦争反対は難しく、毎度敗北感を以て終わることが多いのか。これらには、ある程度確実な答えのための能力も時間も私にはない。ただ、国民学校六年生で太平洋戦争の敗戦を迎えた私には、戦争の現実の切れ端を知る者として未熟な考えを「観察」と題して提出せずにはおれない気持ちがある。
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戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。
1941年に太平洋戦争が始まった時、36年前の日露戦争の現実を知る者は連合艦隊司令長官・ 山本五十六独りであって、首相の東条英機は日露開戦の時士官学校在学中であった。
第1次世界大戦はプロシャ・フランス戦争の43年後に起こっている。大量の死者を出して帝国主義ヨーロッパの自殺となったこの戦争は、主に植民地戦争の経験しかない英仏の将軍たちとフランスに対する戦勝を模範として勉強したドイツの将軍たちとの間に起こった。
今、戦争をわずかでも知る世代は死滅するか現役から引退しつつある。 (中井久夫「戦争と平和についての観察」初出2005年『樹をみつめて』所収)
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《1941年に太平洋戦争が始まった時、36年前の日露戦争…》、《第1次世界大戦はプロシャ・フランス戦争の43年後に起こっている》等々とあるように、40年ほどたてば、戦争は忘れられるということだろう。太平洋戦争敗戦1945年から78年もたっている現在、通常の日本人のほとんどにおいて忘れられているのは当然である。
《精神医学と犯罪学は個々の戦争犯罪人だけでなく戦争と戦争犯罪をも研究の対象にするべきであるとエランベルジェ先生は書き残された》とあるエランベルジェは、生前は不遇だったが、『無意識の発見』で名高い精神医学の歴史学者であり、中井久夫がしばしば言及する師匠である。
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無意識はライプニッツによって公式に“発見”されたのであり、ショーペンハウアーやニーチェはほとんど無意識による人間心性の支配に通じた心理家であった。後二者のフロイトに対する影響は、エランベルジェの示唆し指摘するとおりであろう。(中井久夫『分裂病と人類』第3章「「西欧精神医学背景史」1982年)
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「個々人ではなく戦争自体こそが犯罪学の対象となるべきである」(エランベルジェ)という記述がある文をもうひとつ掲げておこう。
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第二次世界大戦におけるフランスの早期離脱には、第一次大戦の外傷神経症が軍をも市民をも侵していて、フランス人は外傷の再演に耐えられなかったという事態があるのではないか。フランス軍が初期にドイツ国内への進撃の機会を捨て、ドイツ国内への爆撃さえ禁止したこと、ポーランドを見殺しにした一年間の静かな対峙、その挙げ句の一ヶ月間の全面的戦線崩壊、パリ陥落、そして降伏である。両大戦間の間隔は二十年しかなく、また人口減少で青年の少ないフランスでは将軍はもちろん兵士にも再出征者が多かった。いや、戦争直前、チェコを犠牲にして英仏がヒトラーに屈したミュンヘン会議にも外傷が裏で働いていたかもしれない。
では、ドイツが好戦的だったのはどういうことか。敗戦ドイツの復員兵は、敗戦を否認して兵舎に住み、資本家に強要した金で擬似的兵営生活を続けており、その中にはヒトラーもいた。ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。「個々人ではなく戦争自体こそが犯罪学の対象となるべきである」(エランベルジェ)。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
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戦争の記憶は外傷性戦争神経症にかかわり、歴史的(ヒストリー=ヒステリー的)な「心の記憶」というよりは「身体の記憶」であり、フロイトはこれを固着と言った。
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外傷神経症は、外傷的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している[Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt. 」
これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況を反復する[In ihren Träumen wiederholen diese Kranken regelmäßig die traumatische Situation;]
また分析の最中にヒステリー形式の発作がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行に導かれる事をわれわれは見出す[wo hysteriforme Anfälle vorkommen, die eine Analyse zulassen, erfährt man, daß der Anfall einer vollen Versetzung in diese Situation entspricht. ]
それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである[Es ist so, als ob diese Kranken mit der traumatischen Situation nicht fertiggeworden wären, als ob diese noch als unbezwungene aktuelle Aufgabe vor ihnen stände](フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1917年)
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ラカンの享楽(現実界の享楽)はこの固着のことである。
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享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)
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もっともラカンの享楽の固着は主に幼児期の出来事に関わるが。
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トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]……ここで外傷神経症[traumatische Neurose ]は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々は幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることを認めなければならない[aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen ](フロイト『続精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933 年)
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ーー《フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert (…) une répétition de la fixation infantile de jouissance. ](J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)
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固着とは言語に同化不能の身体の出来事である。
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固着は、言説の法に同化不能のものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1 07 Juillet 1954)
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現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964)
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フロイトの反復は、[言語に]同化不能な現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する[La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)
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初期フロイトはこの言語に同化不能の何ものかをモノと呼んだがーー《[言語に]同化不能の部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)]》(フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)ーー、晩年にはトラウマ=身体の出来事への固着というようになる。
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トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕 このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)
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