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2023年2月17日金曜日

未来の扉

 

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Sviatoslav Richter plays Schubert Sonata D 894 - 1. Molto Moderato e Cantabile




スゴイなあ、この1979年スタジオ録音版D894カンタービレ。シューベルト自体がスゴイんだけど、でもやっぱりリヒテルだけだね、こういう演奏ができるのは。ときに息がつまりそうになり、たまにしか聴かないんだけど、今日はピッタリきたね。


なんて言ったらいいんだろうなあ、この感じ。


まず冒頭で穴を開けるんだ、時の生垣に。


人生の通常の経験の関係の世界はあまりいろいろのものが繁茂してゐて永遠をみることが出来ない。それで幾分その樹を切りとるか、また生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない。要するに通常の人生の関係を少しでも動かし移転しなければ、そのままの関係の状態では永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「あむばるわりあ あとがき(詩情)」)



で、途中で水のなかをあまりにもやさしくもぐるんだ。



魚たちも 泳ぎ手たちも 船も

水のかたちを変える。

水はやさしくて 動かない

触れてくるもののためにしか。

魚は進む

手袋の中の指のように。


Les poisson, les nageurs, les bateau

Transforment l'eau.

L'eau est douce et ne bouge

Que pour ce qui touche

Le poisson avance

comme un doigt dans un gant,


ーーポール・エリュアール「魚 POISSON」の前半[安藤元雄訳]


そうして、未来の扉が開く。そうとしか言いようがないね。


ピアノを愛するというなら、そのためには、別の時代からやってきて、つねに完了形で語っているようなアルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリのピアノがあるだろう。あるいはまた近年のリヒテルのようにある種の期待が告げられるようなピアノがある。期待、すなわち近頃リヒテルが登場すると、一緒にそこにあらわれるあの未来のノスタルジーだ(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える。)しかしながら現在形で演奏するグールドの姿は決定的な光をもたらし、無垢あるいは天使という使い古された語を唇にのぼらせる。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』千葉文夫訳)




穴は開けるだけじゃダメなんだ、手袋の中の指のようにやさしく進んでいかないとね。そうしないと未来の扉の向こうの部屋は見えてこないよ。



隣のテーブルにいる女の匂[l'odeur de la femme qui était à la table voisine]…それらの顔は、私にとって、節操のかたいこちこちの女だとわかっているような女の顔よりもばるかに好ましいのであって、後者に見るような、平板で深みのない、うすっぺらな一枚張のようなしろものとは比較にならないように思われた[leur visage était pour moi bien plus que celui des femmes que j'aurais su vertueuses et ne me semblait pas comme le leur, plat, sans dessous, composé d'une pièce unique et sans épaisseur]。〔・・・〕

それらの顔は、ひらかれない扉であった[ces visages restaient fermés]。しかし、それらの顔が、ある価値をもったものに見えてくるためには、それらの扉がやがてひられるであろうことを知るだけで十分なのであった[ c'était déjà assez de savoir qu'ils s'ouvraient]  (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)



あれ、忘れたな、エリュアールのあとに吉行挿れるのを。


男根が子宮口に当り、さらにその輪郭に沿って奥のほうへ潜りこんで貼り付いたようになってしまうとき、細い柔らかい触手のようなものが伸びてきて搦まりついてくる場合が、稀にある。小さな気泡が次々に弾ぜるような感覚がつたわってくる(吉行淳之介『暗室』)



とすれば、脳髄のなかでセットになっている古井由吉も追加しておかないとな。

因果ですね、と抱かれた後で女がつぶやいたのもあの晩のことになる。それまでに幾夜かさねてもほぐれず、その晩もかわらず硬かった女のからだが、遠くから風の渡ってくる音にすくんだのを境に、ひと息ごとにほどけて、男の動きにこたえてどこまでも受けいれるようになり、人の耳をおそれて音をひそめあうような、長いまじわりとなり、ようやくはてて、なごりの息のおさまっていく下から女が何を言い出すことかと、男がこんな始末になったことにあきれて待つうちに、その言葉が女の口から出た。


前世で寝たことがあるんですよ、今夜初めて知りました、とその面相のまま言った。(古井由吉『蜩の声』除夜)