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2023年2月17日金曜日

ミケランジェリ・リヒテル・グールドと「祭りのあと・祭りの前・祭りのさなか」

 

前回引用したシュネデールの次の文ーー、


ピアノを愛するというなら、そのためには、別の時代からやってきて、つねに完了形で語っているようなアルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリのピアノがあるだろう。あるいはまた近年のリヒテルのようにある種の期待が告げられるようなピアノがある。期待、すなわち近頃リヒテルが登場すると、一緒にそこにあらわれるあの未来のノスタルジーだ(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える。)しかしながら現在形で演奏するグールドの姿は決定的な光をもたらし、無垢あるいは天使という使い古された語を唇にのぼらせる。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』千葉文夫訳)


前から気にはなっていたのだが、やはり木村敏のポスト・フェストゥム、アンテ・フェストゥム、イントラ・フェストゥムをふたたび想起するな。それぞれメランコリー親和性、分裂病親和性、癲癇親和性であり、ミケランジェリ・リヒテル・グールドがこのそれぞれに相当するという意味ではなく、彼らの演奏を聴く私が、「祭りのあと・祭りの前・祭りのさなか」の感覚をーーあくまで「ときに」だがーー抱くという意味だが。



◼️post festum(祭りのあと)

メランコリー者の体験は、それが自責の形をとるか妄想の形をとるかを問わず、もはや手遅れで回復不可能な「あとのまつり」という性格を帯びた基礎的事態の表現と見ることができる。私はこの基礎的事態をラテン語の post festum(祭りのあと=「あとのまつり」、「手遅れ」、「事後の」)を用いて言い表しておこうと思う。(木村敏『自己・あいだ・時間』1981年)


◼️ante festum(祭の前)

真の未来志向、将来への投企が過去および現在の全体を基盤にしてはじめて可能となるものであるのとは違って、彼〔ある分裂病患者〕の未来志向は過去と現在を性急に切り離して空虚な自由の中へ先駆するという形で実現を求める。〔・・・〕このような未来先取的、予感的、先走り的な時間性の構造は、さきの「ポスト・フェストゥム」概念と対置する意味で、ラテン語で「祭の前」を意味する ante festum の語で言い表せるのではないかと思う。(木村敏『自己・あいだ・時間』1981年)


ーー《分裂病親和性を、木村敏が人間学的に「ante festum(祭りの前=先取り)的な構えの卓越」と包括的に捉えたことは私の立場からしてもプレグナントな捉え方である。別に私はかつて「兆候空間優位性」と「統合指向性」を抽出し、「もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する」と述べた(兆候が局所にとどまらず、一つの全体的な事態を代表象するのが「統合指向性」である)。》(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)



◼️intra festum (祭りのさなか)

精神医学的疾患のなかには、このイントラ・フェストゥム的な直接性の病理が病態形成要因として中心的な役割を演じているものが少なくない。しかしなんといっても、そのひとつの極北に位置しているのは癲癇だろう。〔・・・〕イントラ・フェストゥム的存在構造は、なによりもまずその現在中心的な時間性と、「天上天下唯我独尊」ともいえる自己中心的な自然との無限の一体性を特徴としている。癲癇者の場合、この現在中心的な時間性は発作における「永遠の一瞬」の灼熱として、またこの自己中心的な自然との一体性は――さきのアリョーシャ〔ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の登場人物〕の体験にも見るような――アウラ症例における世界との合一体験として、もっとも端的に現れてくる。(木村敏『自己・あいだ・時間』1981年)




◼️イントラ・フェストゥムとドストエフスキー

われわれはドストエフスキーから多くのことを学ぶことができる。彼の作品に登場する多数の人物は、ムイシュキンやキリーロフのような癲癇患者だけでなく、全員がこの「現在の優位性」とでもいうべき特徴をそなえている。作中の人物がすべて作家の分身であってみれば、これはちっとも不思議なことではない。一例だけをあげれば、『悪霊』に登場する美貌の令嬢リザヴェータ……彼女にとって、過去・現在・未来の一貫した流れとしての一つの人生などというものは「見たくもない」ものなのである。彼女はスタヴローギンと駆け落ちして一夜の情事を経験した翌朝、「ぼくはいま、きのうよりもきみを愛している」というスタヴローギンに向って、「なんて奇妙な愛情告白かしら! きのうだのきょうだのと、なんでそんな比較が必要なの?」という。彼女は「自分がほんの一瞬間しか持続できない女だとわかっているので、」思いきって決心して「全人生をあの一時間きっかり〔の情事〕に賭けてしまった」のである。

一般に、ドストエフスキーの描く人物はいずれも他人に対して、ときには自分の生命を脅かすような危険な相手に対してすら不思議に無警戒で、分裂病親和者にみられるような他者の未知性に対する恐怖感は稀薄である。また、メランコリー親和者に特徴的な、既成の型の中での役割的対人関係も、彼の作品のどこを探しても見当たらない。彼の描く対人関係は、すべて現在眼の前にいる人との現在の瞬間における直接的な深い連帯感によって支えられている。


ドストエフスキーの意識における現在のこの豊かさは、彼がアウラ体験において死の側から生を眺めたときの壮麗な光景と、どこかで深くつながっているのではあるまいか。死は、生の側から未知の可能性として眺められたときには、身を縮まる恐怖の源となるだろう。しかしもし死を現在直接に生きることができるなら、それはこの上なく輝かしいものであるに違いない。(木村敏『時間と自己』1982年)


◼️イントラ・フェストゥムと荒ぶる直接性

われわれの世界で、過剰としてのエクスタシー、「荒ぶる直接性」がもっとも端的に実現されるのは、文化人類学のいう「ハレの領域」においてであろう。祝祭における生の昂揚と、それにともなう酩酊、陶酔、性的放縦、賭博、暴力、犯罪、そして死、といった日常的秩序の破壊、神聖なるものへの没入と瀆聖の狼藉が、要するにノモスとコスモスに対するカオスの勝利が、ハレの領域の特徴的な内容をなしている。ここでは生の原理と死の原理とは断じて相反し排除しあう対立原理ではない。一方が高まればそれだけ他方も高まるといった関係がこの二つの原理を支配している。フロイトが死の衝動に着目したとき、彼は間違いなくこの直接性の次元での「死」を見ていたはずである。それがその後の精神分析家たちによって、分別的日常性の枠内での個別的身体的な生死のレヴェルにまで矮小化されてしまった。リビドーとモルティドー、エロスとタナトスは、本来、そしてその真実の姿においては一つのものなのである。

このようなハレの、あるいは祝祭のエクスタシーに、われわれは「狂気」の原光景を見る。さきに述べた分裂病やメランコリーは、いずれも本質的には間接性の病態であった。これをもなお「狂気」と呼ぼうとするならば、われわれは右の二つのエクスタシーにならって、「静かな狂気」と「荒ぶる狂気」の区別を設けなくてはならないかもしれない。われわれの文明において古来畏怖と排除の対象とされてきた狂気は、本来的にはどちらかというと後者の方なのである。そして、分裂病やメランコリーのところでも触れたように、間接性の病態も窮極的にはその根源を直接性にもっている。こういった間接性の病態にも「狂気」の様相を与えているのは、それが直接性と相接し、直接性との「差延」においてのみ現前するという事情なのだろう。その限りにおいて、分裂病もメランコリーも、幾分かは直接性の病態でもあり、エクスタシー的・祝祭的な要素を含んでいる。この意味でも、祝祭的な直接性を「狂気の原光景」とみなすことは許されるだろう。私はこの要素に、「祭の最中[さなか]」を意味する intra festum の概念を当ててきた。(木村敏『直接性の病理』1986年)




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遠さ、戦慄、なにか異様なもの。グールドはわれわれを試練に遭わせるーーあまりにも透明なあの音、昇華作用を経たあのピアノが耐え切れないという人々をわたしは知っている。このピアノを聴くと彼らの皮膚はひきつり、指は痙攣するのだ。試練はときに恐ろしいものを含んでいる。わたしもまた、そのせいで、彼があとに残したあの無の彫刻からできるだけ離れていたいと思うことがある。(ミシェル・シュネデール「グールド、孤独のアリア』1988年)