前回引用したシュネデールの次の文ーー、 |
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ピアノを愛するというなら、そのためには、別の時代からやってきて、つねに完了形で語っているようなアルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリのピアノがあるだろう。あるいはまた近年のリヒテルのようにある種の期待が告げられるようなピアノがある。期待、すなわち近頃リヒテルが登場すると、一緒にそこにあらわれるあの未来のノスタルジーだ(ドアはそのときひとりでにひらき、そこにあるのがわからなかった部屋が見える。)しかしながら現在形で演奏するグールドの姿は決定的な光をもたらし、無垢あるいは天使という使い古された語を唇にのぼらせる。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』千葉文夫訳) |
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前から気にはなっていたのだが、やはり木村敏のポスト・フェストゥム、アンテ・フェストゥム、イントラ・フェストゥムをふたたび想起するな。それぞれメランコリー親和性、分裂病親和性、癲癇親和性であり、ミケランジェリ・リヒテル・グールドがこのそれぞれに相当するという意味ではなく、彼らの演奏を聴く私が、「祭りのあと・祭りの前・祭りのさなか」の感覚をーーあくまで「ときに」だがーー抱くという意味だが。
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