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2023年3月14日火曜日

「民主主義」が肯定的意味をもつようになったのは僅かこの200年のあいだ

 


民主主義(デモクラシー)という言葉がむしろ肯定的な意味で使用されるようになってからまだ2世紀余りである。2500年を超えるその歴史の大半において、この言葉は批判的な含意を込められて用いられてきた。(宇野重規が読み解く、世界と日本の「民主主義本ブーム」2022年03月04日)


実にまともな指摘だね、民主主義が曲がりなりにもよいものだと見なされてきたのは、フランス革命後のせいぜい200年あまりのあいだのことだよ。


「デモクラシー」(democracy)の語源は古代ギリシア語の δημοκρατία(dēmokratía、デーモクラティアー)で、「人民・民衆・大衆」などを意味する δμος(古代ギリシア語ラテン翻字: dêmos、デーモス)と、「権力・支配」などを意味する κράτος(古代ギリシア語ラテン翻字: kratos、クラトス)を組み合わせた語。つまりデモクラシーとは「大衆の支配」だ。大衆はエリートに比べて無知なのに、「無知の支配」が言い訳がない。


私も、少なくともほとんどの分野の知において無知な大衆のひとりであることを自認しているので、巷間のデマゴーグに頼っているよ。デマゴーグの語源は、古代ギリシア語のδημαγωγός(デマゴゴス)で、「大衆(δμος / dēmos)を導く(γειν / agein)」者。つまり「大衆指導者」であり、原義には悪い意味はない。



厄介なのは、《大衆は立て続けに話されると巧みな弁舌に惑わされ、事の理非を糾す暇もないままに、一度限りの我らの言辞に欺かれる》ことがほとんどだということだね。


我々は君らの市民に直接語りかける機会を与えられていない。なぜならば、大衆は立て続けに話されると巧みな弁舌に惑わされ、事の理非を糾す暇もないままに、一度限りの我らの言辞に欺かれるかもしれないとの恐れ(それゆえ我々は君ら少数の選ばれた者を招集したのだ)があるからだ。さればここに列席する諸君に、さらに万全を期しうる方法を提案しよう。この会談が一度限りの一方的な通達に終わらぬよう、君たちの一つの論に私たちが一つの弁で答える。我らの言葉に不都合なりと覚える点があれば、直ちに遮って理非を糾して貰いたい。まずはこの点に満足か答えて貰いたい。(トゥキュディデス『戦史』B.C.4)



さらにデマゴーグなる「大衆を導く代表者」が常にまともなヤツだとは限らないことだな。


代表者の持つ大きな長所は、政務を討議する能力があることである。人民はそれにぜんぜん不適当である。このことは民主政の大欠陥の一つとなっている......多数の古代の諸共和国には一大欠陥があった。それはそこでは人民が能動的な、そしてある種の執行を必要とする議決を行なう権利を持っていたことである。これは人民のまったくなす能力のないことなのである。人民はその代表者を選ぶため以外には政治に参加すべきでない。これぞかれらのなしうるところなのである。なんとなれば、人々の能力の正確な度合を知っている人は少ないにしても、しかしながら各人は自己の選ぶ人間が他の大部分のより開明されているかどうかを、一般的には、知る能力を持っているからである。(モンテスキュー『法の精神』1748年)



さらにさらにもっと厄介なのは、代表者のもとで大衆は自由を失うことだよ。


代表は、容易に堕落し、そうならないことはきわめて稀である。〔・・・〕


イギリス人は、自由だと思っているが、それは大きな間違いである。彼が自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるや否や、イギリス人は奴隷となり、無に帰してしまう。〔・・・〕


いずれにせよ、人民は、代表をもつや、もはや自由ではなくなり、人民でなくなる。Quoi quʼil en soit, à lʼinstant quʼun peuple se donne des représentans, il nʼest plus libre; il nʼest plus.(ルソー『社会契約論』Du Contrat Social ou Principes du droit politique)1762年)




もっとも大衆は自由を失ったほうがいいのかもしれないけどさ。


大衆は怠惰で短視眼である。大衆は欲動断念を好まず、いくら道理を説いてもその必要性など納得するものではなく、かえって、たがいに嗾しかけあっては、したい放題のことをする。 die Massen sind träge und einsichtslos, sie lieben den Triebverzicht nicht, sind durch Argumente nicht von dessen Unvermeidlichkeit zu überzeugen, und ihre Individuen bestärken einander im Gewährenlassen ihrer Zügellosigkeit.(フロイト『ある幻想の未来』第1章、1927年)



大衆は「不自由」を課さないと何するかわかんねえからな。


用語の混乱を避けるため、私は、欲動が満足させられえない事態を「断念」Versagung、この断念が制度化されたものを「禁令」Verbot、そして、この禁令から生まれる状態を「不自由」Entbehrungと呼ぼうと思う。

Einer gleichförmigen Ausdrucksweise zuliebe wollen wir die Tatsache, daß ein Trieb nicht befriedigt werden kann, Versagung, die Einrichtung, die diese Versagung festlegt, Verbot, und den Zustand, den das Verbot herbeiführt, Entbehrung nennen.〔・・・〕


われわれは、大多数の人々が外的な強制を加えられてはじめて――つまり、外的な強制が実効を持ち、ほんとうに外的な強制が加えられる心配がある場合にだけーー文化の側からのこの種の禁令に服従していることを知って、意外の感に打たれ、また憂慮に満たされるのだ。このことは、すべての人間が同じように守らねばならぬとされている文化の側からのいわゆる道徳的要求にもあてはまる。 人間が道徳的に信用ならない存在だとされる場合の大部分はこの事例に属する。〔・・・〕


罰せられはしないということが分かれば、自分の物欲、攻撃衝動、性欲などを満足させてはばからず、嘘や詐欺や中傷で他人を傷つけることを平気でする文化人種はそれこそ数えきれない[Unendlich viele Kulturmenschen… , versagen sich nicht die Befriedigung ihrer Habgier, ihrer Aggressionslust, ihrer sexuellen Gelüste, unterlassen es nicht, den anderen durch Lüge, Betrug, Verleumdung zu schädigen, wenn sie dabei straflos bleiben können]。おそらくこれは、人類が文化を持つようになっていらいずっと長くつづいてきた状態なのだ。(フロイト『ある幻想の未来』第2章、1927年)




ま、フロイトのように「ヒネクレテ」言わなくてもさ、カール・シュミットの「穏やかな」民主主義の定義はまがいようもなく真理だよ。



民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異質な者や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)


「自由と民主主義のために!」とか叫んでいるヤツの集団で、自由に異質な者の排除やってないヤツ見たことないね。