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2023年3月21日火曜日

風がちがうのよ


ある言葉に一連の記憶が池の藻のようにからまりついていて、ながい時間が過ぎたあと、まったく関係のない書物を読んでいたり、映画を見ていたり、ただ単純に人と話していたりして、その言葉が目にとまったり耳にふれたりした瞬間に、遠い日に会った人たちや、そのころ考えたことなどがどっと心に戻ってくることがある。(須賀敦子『遠い朝の本たち』)



前回、和辻哲郎の火山灰でできた武蔵野の土壌と京都の花崗岩の風化でできた砂まじりの土壌の相違の話を引用したところで、《「風がちがうのよ」とそのひとは編集者に語ったそうである》で始まる中井久夫の須賀敦子論がどっと心に戻ってきた。隠れ須賀敦子ファンの私にとっては、いやそれだけではなく中井久夫のエッセイ全体のなかでも白眉のひとつとしてーー私がひどく愛する「匂いの記号学」と同じくらい(➡︎「五月のたわわな白い花のすこしただれたかおり」)ーー、あまりにも魅了された文である。ここではただひたすらその文章を引く。




◼️中井久夫「阪神間の文化と須賀敦子」

ーー須賀敦子全集第四巻(河出書房新社、2000年7月)の「解説」として書かれたものである。


1


「風がちがうのよ」とそのひとは編集者に語ったそうである。そのひととは須賀敦子。風がちがうところは彼女が育ったかつての阪神間・夙川のあたりである。


風のちがいは端的であった。湿潤な日本の風には何かの醗酵臭が混じる。それは稲束の温もりのこもった干し草の香りであったり、魚のすえた匂いであったり、腐葉土の菌臭であったりする。それに一九六〇年以前、高度成長が始まる前の日本は人口の大半が農民の農業国だった。下肥のすえた匂いは東京の市街部を含めて全国にみちみちていた。それが彼女の育ったあたりにはまるきりなかった。


2


昭和初期、大阪を発って北に大きく振れながら神戸に向かう阪急神戸線の電車は、塚口を出ると直線コースに入って、見渡す限りの田園をまっすぐ西に向かった。西正面やや北に三〇〇メートルあまりながら存在感のある鉄兜さながらの形の甲山。その背後に六甲山脈がえんえんと横たわる。その姿が次第に近づいてくる。


武庫川の鉄橋を越えて堤防を下る時、電車はここぞとばかり最高速度を出し、それを徐々にゆるめながら西宮北口駅に滑り込んだ。 ここで今津線と直角に平面交差した電車は、ふたたび速度を上げ、稲田がそこここに残る地域を突ききって、南郷山の丘陵にさしかかり、そこの踏切で急に速度をゆるめた。


この時、甲山は北にそびえる独立峰となり、六甲山は背の高い松林に隠れてよく見えない。線路はガードを越えて一段と高い堤防に上がる。 堤防の上の影の濃い松の老樹たちのさしかわす枝の下、はるか下に夙川の清らかな水が白い砂の上をさっさっと流れてゆく。当時の夙川駅のホームは川を越えたところから始まっていたはずだ。


風の匂いが変わるのはほとんど正確に南郷山の踏切を越えたところからであった。電車の窓をすとんと落してふんだんに風を入れる五月初めならば、当時日本全国をおおっていた、あのひりつくような匂いがかき消え、代わって、松の樹脂の香りと花の匂いと風化花崗岩の湿り気と微かな海の塩とを交えた爽やかな風がどっと車内に満ちた。


その風は、老木が削りたての杉板そのままのきつい香りを放つ間を太平洋からの強い風がふんだんに吹きすぎる鎌倉の風でもなく、高燥な大気が落葉松のしめった匂いをひきしめている軽井沢の風でもなかった。かつての阪神間の風、須賀さんの風である。この地域の、なにものをまとわりつかせず、いつも洗い立てのような風化花崗岩の白い砂が、この風のかおりを守っていた。


3


驚くのは、阪神間でももっとも豪華なこれらの住宅地が昭和初期の不況の時期にも建設されつづけたことである。大正時代の住宅が個人的豪奢とすれば、昭和初期の住宅地は集団的贅沢である。関東大震災の後、大阪の人口が東京を凌ぎ、それに対応する繁栄がもたらしたためだろうか。須賀さんの父君は、一九三六年に一年間の世界一周の旅に出ており、しかも須賀家はその前年に夙川に家を新築している。日本経済が好況に転じるのは翌々年の一九三七年、中国との戦争が開始された年であるはずなのに――。


夙川は昭和初期の計画都市である。かつては、松林をできるだけ屋敷内に残すという条件で土地が売られたのであろう、高い松の木がほとんど、どの家からも聳えていた。 植木職人が剪定を重ねて横に伸びる枝が切られ自然な樹形を失ってひょろ長い松の木たちだったが、街をうっすらと松林がおおっていた。


もし、夙川で下車せず、そのまま神戸に向かうならば、電車は切り通しをなおまっすぐ西に向かう。 草の繁る切り通しの上、線路の両側の道は桜並木であり、時に松の老樹を交える。その両側が夙川の街である。両側を結ぶ跨線橋「雲井橋」の南側に金色の十字架とそれを支える金色の尖塔が一瞬見えるだろう。この尖塔の近くに、須賀さんが精道村(芦屋市) から六歳の時に引っ越して来られた家がある。


電車は丘を一つ越し、細い宮川の谷を渡るころには、右手に六甲山の南東尾根がぐっと近づいてくる。今は整備された住宅地になっている宮川の谷に沿う道は、当時から六麓荘に登る舗装道路だったが、両側は棚田だった。芦屋の住宅街はその右岸から始まっていた。電車が芦屋川の堤防を駆け上がって川を渡る時には、川の左岸に昭和初期、小学校がモダニズム建築の実験場になっていたころ、その代表作の一つ、今はなき山手小学校が見え、右岸には城山がそびえるのが見えただろう。芦屋川は、一九三八年の大風水害以前はもっと荒れ川だっただろう。


芦屋市は彼女が六歳まで過ごしたところである。当時の彼女の家の位置ははっきりしないが、駅の南東部にある古くから開けた住宅地だったのではないか。大正時代にひらけて当時は空き地が多く、裏口を出れば幼い彼女が遊んだという畑や果樹園があった。


芦屋は道が狭いが、その代わり、松林に囲まれた夙川とは違う明るい空間であった。


ここから電車は六甲山の南麓ぎりぎりに沿って走り、岡本に着く。駅の東、親友「しいべ」の家に向かう道が線路を横切る踏切は今もそのままにある。岡本は、古くは梅林で名高く、大正期に中流階層のための住宅地として開発された。


電車は桜並木の間を通り抜けて、住吉川の堤防へと駆け上がり、御影に着く。この駅の周辺から、ほぼ真南の国鉄住吉駅にかけての一帯は、芦屋とともに阪神間でもっとも古く開けた土地で、もっとも富裕な屋敷が存在し、今なお森一つを敷地とする邸宅がある。JR駅の少し東に谷崎潤一郎が住んだ家もある。しかし、須賀さんのテリトリーは岡本で終わるようだ。狭義の阪神間でもその東部が彼女の世界である。


4


かりに少女時代の彼女の幻を追うならば、やや浅黒い肌の少女が、朝早く家を出て、夙川教会の傍を通っていったはずだ。聖心女学院小林分校まで、通学に一時間はかかっただろう。白いブラウスに紺のスカート、ボタン留めの黒靴を履いて、冬季ならその上に紺のセーターを羽織っただろう。たぶん線路沿いの桜並木を歩き、坂を下って夙川の駅に着いただろう。そして踏切をわたって上りホームのゆるやかな階段を登っただろう。踏切は、古い枕木を縦に並べただけのもので、中年の踏切係のおじさんがいて、簡単な鉄枠の遮断機を左右に動かして開閉していたはずだ。


彼女は切り通しをゆっくり下ってくる神戸線梅田行きに乗って、一駅先の西宮北口で今津線・宝塚行きに乗り換える。今津線の電車はずっと旧式である。天井からは古風な鈴蘭灯が下がっていただろう。電車はゆっくりと六甲の東の急峻な山裾をめぐってゆく。二駅目の甲東園で関西学院と神戸女学院の生徒が降りて車内がすく。聖心小林分校は四駅目の「小林〔おばやし〕」にある。


須賀さんは「丘の上の学校」と書いておられるけれども、およそなだらかな丘などではない。駅を降りて線路を渡る。駅の出入口はただ一つ、学校とは反対側の東側である。線路に沿って南に少し戻り、ガードを潜ると急な登り道になる。その入り口にアカシア並木が初夏には甘い香りを漂わせていただろうが、低い門柱を境に学校構内に入ると、右手はさまざまな木が繁る間に池が水草を浮かべていただろう。左手はコンクリート壁でその上方は竹が密生する崖である。この昼も暗い急斜面の道を生徒はあえぎ登る。坂道がもう尽きようとするところの正門にたどりついて、校庭まで少し逆戻りする。しかし校庭に出るとにわかに東に眺望が開ける。白い校舎の窓からはさらに広がってみえただろう。北大阪の平野はまだひろびろとして田んぼで、晴れた冬の朝など、遠く大阪城がそびえたっていたにちがいない。遅刻生は、朝礼の行われている前を通って靴をはきかえにゆかなければならなかった。一学年三〇人、小学生も含めて全部同じキャンパスであって、教鞭をとる人は一般科目も修道女である。


5


さて「阪神間」とは何だろうか。地理的には大阪と神戸の間のことである。しかし、阪神神戸線の西宮北口までは大阪文化圏に属する。阪神文化圏とは、あの「匂いのちがうところ」、私の友人の定義では、六甲山の急な崖の南、東は南郷山から西は阪急ならば御影と灘区に入って今の阪急六甲の中間までであるという。その他には、支脈とでもいうべきものが今津線沿いに宝塚まで、主に線路の山側にある。岡本・住吉とともに「阪神間」の子どもたちが通う学校が並ぶところである。


東京の人は、こういう細かな定義に戸惑いを覚えられるだろう。そもそも、京都と大阪と神戸がこれほどの近さにありながら、文化があれほども違うのはなぜだろうかという質問を受ける。


古く開けたこの地域は数キロを隔てると方言が違う。古い時代ばかりではない。大正以後に作られた阪神間の言葉はその東の北大阪方言とも、その西の神戸方言ともかなり違う。それは、古くから京都言葉を大幅に取り入れた船場方言という大阪上流商家のことばが基礎になっており、その上に新しい東京山手方言―標準語が重ねられている。その中でも住吉・岡本・芦屋と、夙川から東北部、つまり西部と東部とには微妙な違いがある。東部のほうが、東京の人が聴くと、東京言葉に近いと感じられるだろう。学校ごとの学校方言もあって、私の卒業校がかつて使っていた言葉で他に通用しない単語や語法もあった。須賀さんの言葉の絹漉しの味には、イギリス人のような、この言語的差異への感覚が幼い時からあってのことではないだろうか。皆が皆ではないが、この地域独特の容貌さえあって、それとわかる人にはわかる。これは地域内で通婚を繰り返して何世代かになるからか、それとも気候のせいだろうか。他地方から転勤してきた人も、観察していると、数年で輪郭がまろやかになることが多い。


さて、京阪神で文化が違うのは、もちろん伝統の基盤の違いがあってのことだが、お互いに近く、通勤範囲だから、好みのところに住めるからでもある。この近さは明治以来のことで、特に電車の発達によって加速された。大阪・神戸間など、今よりも昭和初期の電車の所要時間のほうが短い。そこで、私の知る神戸の大学の哲学者の九割は京都に居を構えて通勤してくる。 京都の風土が哲学に合っているのであろう。「寒夜に桐火桶を抱いて」 苦吟した藤原俊成を思い合わせる。私の知る現代社会学専攻者は大阪の下町に住まないと現代社会学などできませんよという。因みに神戸は詩人や画家が多い。感覚が解放される街である。 そして『細雪』の登場人物のように、阪神間に住む人は、大阪に経済的基盤を持ち、京阪神の文化を享受する。たとえば花見と和装は京都に、洋食と洋服は神戸に、というふうに。


6


どのようにして、こういう例外的な世界ができたのか。

核は、大阪の伝統的商業中心地「船場」の豪商たちが、大阪・神戸間の鉄道が日本で二番目に敷設されると、別荘を郊外地に作り始めたことにある。やがて、別荘が自宅となって大阪に通勤するようになった。須賀さんの家の発祥が船場に近い道頓堀にあり、なお根をそこの伝統文化に残していることが、エッセイに散りばめられた挿話の中にはっきりと示されている。これはこの地域ではごく普通のことである。


船場の文化は、江戸期に、一つは天文学・暦学者・地理学者、医学者、哲学者を輩出させていた。江戸の官学的蘭学は大阪の町人ディレッタントの蘭学の移入によるところが大きい。英国産業革命期におけるウェッジウッドらの「ルナー・ソサエティ(月下学会)」に似て、京阪の町人学者は、昼間は商店主であり番頭である。江戸の洋学者が仕官の途を意識したのと様かわって、報酬や地位を目指さない内発的なものであり、鎖国にもかかわらず眼を海外に開きつづけた商人の旺盛な好奇心によるアマチュアリズムである。「京都の富は海上にあり」といわれた記憶は決して失われず、西方渡来のゴブラン織りを飾った「船」 鉾が、年に一度、世界の代わりに京都の街を 「周航」していた。この延長上に西欧文化の摂取がある。 神戸がヨーロッパ航路の出発点として西欧に向かって開かれた窓となった時、彼らは西欧人と取り引きし、歓談し、飲食じ、さらには家を設計させ、内装を整えさせた。それは日本知識人の痩せた西欧コンプレックスと無縁な西欧との付き合い方である。


私はしばしば友人の家の書棚のすごさに驚いた。当時有数の世界切手収集家のお宅にうかがった私は切手収集の情熱を即座に失った。商家だった須賀さんの家に、昭和初期の世界文学全集、現代日本文学全集、世界戯曲全集をはじめ、個人全集や洋書がいくつかあったのはふしぎではない。


他方、船場の文化は、茶道、華道をはじめ、江戸期京都の伝統文化を取り入れ爛熟させている。須賀家に帯を売りに来る出入りの商人は、京都の商人ではないにしても、京都の商品を持ってきているはずである。言葉がすでに純粋の大阪弁ではない。特に女性には京言葉を学ばせており、その女性に育てられた男性も含めて、船場言葉は京都の影響下にあり、それは阪神間に引き継がれて独特の言葉を形成している。この腐葉土的な言葉の豊かさは、「文体の地下水」と須賀さんが表現しているものの豊かさである。ふっくらして、やわらかく、きりっとした休止と大胆な飛躍があり、勘どころに「すごい」とか「とびついてしまった」という日常の感情表現の言葉を使って、しかも品位を損なわない文体である。


むろん、阪神間に育てばそれだけで須賀さんの文体になるわけではない。その底になくてはならない確として論理性を得るためには、東京文化を通過し、外国語をものにしなければならないだろう。須賀さんの言葉のよさはイタリア語が常にその裏打ちをしているからだという、池澤夏樹さんの指摘は正しい。そして、須賀さんによればイタリア語は「きまじめな言葉」である。ラテン語をきまじめに活かし継承しているイタリア語は「阪神間」の文化に底流する江戸期町人の、漢文から出て独自の論理的骨格をつくったきまじめな文体に通じている。


本巻の白眉の一つは『細雪』論であると思う。私は『細雪』にこういう読みができるのかと、眼がさめる思いであった。須賀さんの指摘する、伝統的物語世界に生きる雪子と近代的小説世界に生きる妙子との二元的対立は、阪神間の文化に最初から存在したものであって、おそらく江戸期の船場文化が持っていた伝統と進取、心学と心中讃美の二元性の継続であるだろう。須賀さんの父君がすでに、戦前もものおじせずに悠々と世界一周する人であると同時に、京都の女性とねんごろになって須賀さんを悲しませた人である。父君への対決と最終的和解は本巻(全集第四巻)に収められた『遠い朝の本たち』の隠れた主題であり、それは読書遍歴に託した自伝であるが、彼女にとってそれは阪神間の文化にそもそも織り込まれていた矛盾・二元性との対決と和解でもある。


7


阪神間に大阪から移住し、なお大阪に生活の根を持つ人たちは、大正時代になって、地元の人と通婚しはじめた。地元の人とは、灘の酒蔵の持ち主であったり、神戸に本社を置く大小の船舶会社、運送会社、造船所の持ち主であったり、阪神間や神戸の土地の値上がりによって豊かになった人たちであったりした。九州を初め、他地方の富裕階級がここに別宅を置くこともあった。第一次世界大戦はこの地域に多くの富をもたらし、住吉村一村の払う税金は中位の一県を凌ぐに至ったという。


神戸東部の灘にあったキリスト教系の学校である関西学院や神戸女学院は昭和初期に阪神間に移転しはじめた。東京の聖心女学院のようにここに分校を作る例もあって、それが須賀さんが通った学校である。甲南学園は、創立者が住吉の富豪に回した一人一〇万円から三〇万円に及ぶ奉賀帳によって作られた小学校から始まり、最後は、関西唯一の私立七年制高校として一九四八年の学制改革を迎えて甲南大学となった。これらの卒業生は通婚によってお互いに血縁を作ってゆく。 この地域に育った私の友人で、この地域以外の学校の卒業生と結婚している者は例外的である。この強力な引力の圏外に脱出する人は少なく、精神的努力を要する、かつてはおそらく今よりもはるかにーー。


8


しかし、阪神間は、源氏物語のように都のみやびの一元的中心ではない。阪神間は須賀さんが『細雪』で分析しておられるように常に東京との緊張に生きてきた。実際、須賀さんの父君も、東京に転勤し、彼女は青春時代の前半を東京で送る。父君がすでに鴎外の史伝『渋江抽斎』を生きる上での基準とし、晩年、妻が危篤という危機の際には薄暗い電灯の下で『武鑑』を読む人であった。


一般に、阪神間に育った者は東京に出て初めて「欧米の近代的自我の欠如体としての日本人」としての自己と格闘している当時の東京の知識階級の、青ざめて目のすわった自我と痩せて鋭い標準語と「小骨の多い」論理に遭遇する。そして、東京世界においては前提である競争と競合と瑣末的な差異の重視とが、ある時期の阪神間に育った者には最大の苦手である。須賀さんの東京時代には登校拒否に近い時期があり、「学校の青い塔が焼けてしまったほうがいい」と真剣に思う時期があった。彼女はほとんど島流しに遇った感じを持ちながら生きていたようである。戦争がたけなわとなって、彼女は、疎開のために夙川の家に戻り、小林分校に戻って、旧友と再会してほっとする。彼女も「阪神間」の引力圏内がもっとも「自分のもとにいる」と感じる人であった。


「阪神間」と「東京」との違いはアマチュアリズム対プロフェショナルの差でもある。彼女がフランスに向かう同じ船の留学者先生たちを見る目はよそよそしい。他律的な競争と権力指向との世界に馴染まないとすれば、人のやらない、自分の好きなことをするしかない。旧制甲南高校は、ほとんど官僚を出してこなかった。その分、学者と医師との比率が旧制高校の中で格段に高く、それも外国大学の教授(特に数学)が目立つのも、須賀さんが結局はイタリア語に向われたのも、そういう面がありはしまいか。


須賀さんは、ギンズブルグに文体の同質性を発見して、ただでもいいから訳そうとする。彼女は晩年大学教授になるが、好きなものしか訳さないという一線を守った点で、外国ではいざしらず、日本ではアマチュアに属するであろう。


9


しかし、阪神間も須賀さんの時代のままではない、彼女は現実のトリエステを訪ねて、夫から聞かされてきた詩人サバの世界が彼女の中で勝手にふくらんだものだったと気づくが、それは、長く遠ざかっていた阪神間を、夙川の街を、再訪した時の彼女の思いが重ね合わされていなかったか。彼女は晩年を東京で送る。


敗戦後の混乱、インフレ、財産税、いくつかの不況、関西経済の地盤沈下、そして一九九五年一月の震災を、阪神間は生き抜いてきたかのようにみえる。実際、震災後の岡本、芦屋、そして夙川の崩壊した家々が今おおむね「自力復興」を遂げたのを見ると、その逞しさ、しぶとさを見直したくなる。 失われた美術品へのひそかな嘆きを聞くと、その蓄積の厚さに改めて敬意を表したくなる。


たしかに、その間に、かなりの家がその主を変え、新しく興ってきた階層に譲った。しかし、新しく加入した家も、いつの間にか、阪神間の通婚圏に組み入れられて行った。 もともと農村であったこの土地を高く売って富裕となった地つきの地主たち、すなわち明治の土地成金も、また大正の船成金も、昭和の軍需産業主たちも、いつしか溶け込んだからには、戦後にも現在でも同じことが起こって不思議ではない。


戦後の関西の地盤沈下と東京一極集中も大変化であった。これに対応して、この地域は他にさきがけて灘、甲陽などの私立中学を学制改革を機会に六年制の優秀進学校に変身させた。これをとおして、この地域は最優秀の子弟を東京に送りはじめたのである。鮮やかな適応ではある。以来半世紀、通婚圏は大きく東京に広がった。震災の後、東京に赴いて、予想以上に多くの人が阪神間の人と縁組しているのに驚いた。 「家内の実家が被災しまして……」というふうな挨拶を受けたのである。


もっとも、この強固な自己維持性には影の部分がある。谷崎も、『細雪』の終りに「不倫」や「不道徳」の面は書かなかったとわざわざ注記している。また、九州や山陰地方に赴くと、その地の精神病院の医師はしばしば、阪神間の裕福な家の患者が送られてきて、たくさんうちの病院にいますよと語る。富裕階級のための精神病院を持たない点で、この地域は東京と大いに異なる。彼ら彼女らは時に「死んだ」ことにされている。


このように、無き者とされる人がいる一方、脱出に苦しむ人たちも多い。男子も家業を継ぐべきかどうかに悩むけれども、女性は、長年養われた芝生のように濃密に絡み合った通婚圏からの脱出にしばしば困難を覚える。しかるべき家との見合い結婚がルールだった戦前は特にそうであった。それはしばしば難航して年齢との競争になること『細雪』の雪子のごとくだが、さりとてこの「物語」の世界からの脱出は妙子のような危うい彷徨となりがちである。


実際、戦前の教育制度の終末期に当たる須賀さんの世代にとっては、実際の位置は専門学校であった女子大が最高学府であり、そこをいったん卒業すれば、結婚以外の選択肢は少なかった。そして、つねに新しい体験を求める「個」はそこで終る。須賀さんは「しいべ」と「生きるってただごとじゃないのよねぇ」と語り合うが、その背景の一部にはこれがあったのではないか。 ありうる別の選択肢とは、例外的な努力を以て狭き門である留学、あるいは女性を受け入れている国内の少数の大学に入学するか、修道院に入るかであったろう。今から僅か二〇年前まで、四年制大学の女子卒業生に、一流銀行が一年後退職という条件の採用を提示して何ら怪しむことがなかったのを思い合わせていただきたい。 阪神間の強固な通婚圏からの半ば強制的な誘い、引力があればなおさらである。須賀さんより五年若い私の世代にも、この誘いからぎりぎりの時点で脱出してアメリカの大学を出て、ついに「日本人としてアメリカでもっとも成功した大学教授」となった女性のいることが思い出される。須賀さんも、夫君が早世しなければ、すぐれた日本文学の紹介者としてイタリアで生涯を送られたかもしれない。実際、夫君逝去後しばらくして帰国した彼女の生きる道は、一九七、八〇年代でさえなだらかでなかった。彼女の四〇歳代、五〇歳代の仕事である『イタリアの詩人たち』やギンズブルグの『ある家族の会話』でさえ、イタリアのオリヴェッティ社のPR雑誌『スパツィオ』に掲載されたものであり、後者は単行本さえ、オリヴェッティ社の事業として出版されている。彼女を世に知らしめた 『ミラノ 霧の風景』でさえ、その大部分は『スパツィオ』が初出である。


10


では、なぜ一九九〇年代になって、『ミラノ 霧の風景』がほとんど一撃を以て読書界を圧倒したのであろうか。


一つは、その内容である。 『ミラノ 霧の風景』はソ連圏崩壊と時を同じうしている。冷戦の論理に拠って立つ日本の戦後史は虚妄となった。それは立場はさまざまであっても多くの知識人たちの戦後史であった。それを歩んでいない彼女の体験、いやそれ以上に、それに汚れていない感性はその真空を埋めたのではないか。それは「海外に活躍した」 人の体験ではない。私たちと塀を隔てて同時代を生きた人の体験であった。しかし、私は煎じつめれば、多くの海外生活記との相違を次のようにしか表現できない。それは吉田満の『戦艦大和ノ最期』と大多数の戦記ものとの差であるとーー。


それは何よりもまず文体の力に現れている。それは久しく出会わなかった新鮮な果汁のしたたる文体であった。そして、日常語を交えてかろやかにはずむ文体であった。しかも、つつましく、気品にあふれた文体であった。そして、硬質の「感性の論理」をその底に置いた文体であった。少なくともある年齢以上の世代は、そのような文体に飢えており、思いがけない贈り物として、須賀さんのエッセイは快い驚きを以て受け取られたのであろう。


それだけではない。人との出会い、そして年をへだてての再会、あるいは消息を聞く彼女の筆づかいには、まぎれもなく「無常」の感覚がある。彼女のエッセイが私たちの心を打つのはこの清冽な無常感あってのことと私は思う。それは『遠い朝の本たち』の朝露のようにきらきらしい文章にも流れている。彼女の本のどれを読み終えても、いちばん長く残る余韻はこの無常感である。


一言にしていえば、彼女は「その時に遇った」のである。しかし、それはあまりといえばあまりに遅かった。彼女にはあと一〇年の時間しか残っていなかった。


かつて、ノマッド(遊牧者) 時代に、定住者であるギンズブルグの『ある家族の会話』を日本語に訳し、定住への努力を記した庄野潤三の『夕べの雲』をイタリア語に訳した彼女は、東京に住むようになって逆にユルスナールのような一所不住の人に自らの生涯を重ね合わせるようになった。彼女の二面性はこのような現れ方をする。そして回顧はイタリアの夫と過した日々から始まり、最後に幼少時の自伝を読書に託して描いた。本巻は、そのような回顧とともに、新しい読書の果実を載せる。しかし、方向が反対であるはずの両者は、この巻の中で一枚のシーツのようにほとんど継ぎ目なしに繋がっている。 遠い朝の本たちを今手にしたばかりの本を読むように語り、今出たばかりの本を、本にはじめて出会った遠い朝のような新鮮さで読むところに、本巻の統一性があり、 彼女のいつまでも若い感受性があると私は思う。

(中井久夫「阪神間の文化と須賀敦子」初出2000年『時のしずく』所収)




須賀敦子(1929年 - 1998年)

中井久夫(1934年 - 2022年)


この二人の文章に途轍もなく魅了されるのは、二人とも私の母(1932年 - 1982年)の同世代なのだということも少しはあるかもしれない。ああ、あのときの母の言葉がある、と感じることがあるから。


とはいえやはりここなのである、


《人との出会い、そして年をへだてての再会、あるいは消息を聞く彼女の筆づかいには、まぎれもなく「無常」の感覚がある。彼女のエッセイが私たちの心を打つのはこの清冽な無常感あってのことと私は思う。それは『遠い朝の本たち』の朝露のようにきらきらしい文章にも流れている。彼女の本のどれを読み終えても、いちばん長く残る余韻はこの無常感である。》




ここに次のような方法がある。若いたましいが、「これまでお前が本当に愛してきたのは何であったか、お前のたましいをひきつけたのは何であったか、お前のたましいを占領し同時にそれを幸福にしてくれたのは何であったか[was hast du bis jetzt wahrhaft geliebt, was hat deine Seele hinangezogen, was hat sie beherrscht und zugleich beglückt?]」と問うことによって、過去をふりかえって見ることだ。

尊敬をささげた対象を君の前にならべてみるのだ。そうすればおそらくそれらのものは、その本質とそのつながりによって、一つの法則を、君の本来的自己の原則[das Grundgesetz deines eigentlichen Selbst]を示してくれるであろう。


そういう対象を比較してみるがよい。一つが他を捕捉し拡充し、凌駕し浄化して行くさまを見るがよい。そして、それらが相つらなって、君が今日まで君自身によじ登ってきた一つの階梯をなすさまを見るがよい。


なぜなら、君の本質は、奥深く君のうちにかくされているのではなくて、君を超えた測りしれない高い所に、あるいは少なくとも、普通きみが君の「自我」と取っているものの上にあるからだ[denn dein wahres Wesen liegt nicht tief verborgen in dir, sondern unermeßlich hoch über dir, oder wenigstens über dem, was du gewöhnlich als dein Ich nimmst]. (ニーチェ『反時代的考察』第三篇第1節、1874年)