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2023年3月20日月曜日

圓徳院境内の「緋色の筋のまわりにひろがる繊細な苔におおわれた丘」

 

前回、京都の苔庭の話を出したところで、和辻哲郎の「京都の四季」を思い起こした。この随筆は、前段の《一体東京の樹木は、京都のそれに比べると、ゲテモノの感じである》がひどく印象に残っていたのだが、苔の話も後段にある。


東京の新緑が美しいといってもとうてい京都の新緑の比ではないが、しかし美しいことは美しい。やがて新緑の色が深まるにつれ、だんだん黒ずんだ陰欝な色調に変わって行くが、これも火山灰でできた武蔵野の地方色だから仕方がない。樹ぶりが悪いのは成長が早すぎるせいであろう。一体東京の樹木は、京都のそれに比べると、ゲテモノの感じである。ゲテモノにはゲテモノのおもしろみがある。などと、自分で自分を慰めるようになった。〔・・・〕


大槻正男君の話によると、京都の風土は植物にとって非常に都合のよいものであるという。素人目にもそれはわかる。水の豊富なこと、花崗岩の風化でできた砂まじりの土壌のことなどは、すぐ目についてくる。ところでその湿気や土壌が植物とどういうふうに関係してくるかということになると、なかなか複雑で、素人には見とおしがつかない。ただほんの一端が見えるだけである。 


京都の湿気のことを考えると、私にはすぐ杉苔の姿が浮かんでくる。京都で庭園を見て回った人々は必ず記憶していられることと思うが、京都では杉苔やびろうど苔が実によく育っている。ことに杉苔が目につく。あれが一面に生い育って、緑の敷物のように広がっているのは、実に美しいものである。桂離宮の玄関前とか、大徳寺真珠庵の方丈の庭とかは、その代表的なものと言ってよい。嵯峨の臨川寺の本堂前も、二十七、八年前からそういう苔庭になっている。こういう杉苔は、四季を通じて鮮やかな緑の色調を持ち続け、いつも柔らかそうにふくふくとしている。ことにその表面が、芝生のように刈りそろえて平面になっているのではなく、自然に生えそろって、おのずから微妙な起伏を持っているところに、何ともいえぬ美しさがある。従ってそういう庭は、杉苔の生えるにまかせておけば自然にできあがってくる道理である。臨川寺の庭などは、杉苔の生えている土地の土を運んで来て、それを種のようにして一面にふりまいておいただけなのである。しかしその結果として一面に杉苔が生い育ち、むらなく生えそろうということは、その場所にちょうどよい条件がそろっていることを示している。杉苔は湿気地ではうまく成長しないが、乾いた土地でもだめである。その上、一定の風土的な条件がなくてはならぬ。京都はそういう条件を持っている。それが京都の湿度だと思う。〔・・・〕


が、湿気と結びついて土壌が重要な役目をしていることも見のがすわけには行かぬ。樹木の姿の相違などはそこに起因しているように思われる。武蔵野の土は、岩石の風化でできた土とは、非常に違ったものである。いくら掘ってみても同じようにボコボコしているし、石などは一つも出て来ない。植物の根がのびて行くのを邪魔するものは何もない。たぶんその結果であろう、武蔵野の樹木はのびが非常に早い。それが樹の姿に野育ちの感じを与える。その代表的なものはつつじだと思う。一間も二間もの高さに育ったつつじなどは京都付近では見ることができない。それと同じに松の樹の枝ぶりがまるで違うし、桜に至っては別の種類ができあがっている。楓などでも成長の速度が恐ろしく違う。そういう相違はあらゆる樹木の種類について数え上げて行くことができるのである。京都の東山などは、少し掘って行けば下は岩石である。そういう、あまり厚くない土壌の上に、相当に大きい樹木が生い茂っている。ああいう樹木の根は、まるで異なった条件の下にあるといってよい。同じ丈をのばすのに、二倍三倍の年数がかかるかもしれない。しかしそれは無駄ではないのである。早くのびた樹の姿は、いかにも粗製の感じで、かっちりとした印象を与えない。また実際に早く衰える場合も多い。それに対して、同じ大きさになるのに二倍三倍の年数をかけた樹は、枝ぶりに念の入った感じがあるばかりでなく、かえって耐久的なのである。そういう樹々が無数に集まって景観を形成するとすれば、景観全体がすっかり違った感じになるのは当然であろう。

(和辻哲郎「京の四季 」1950年)




これは1950年の話だが、では現在の京都の樹木はどうなのか。


少なくとも京都の森は昭和30年ごろからかなり変貌しているようだ。







京都伝統文化の森プロジェクト、古都の森・東山を歩いてみませんか PDF

「東山の森」は時代とともに、 その姿を変えています


当然のことですが、京都に都がおかれる平安時代以前から、 東山はこの地にありました。山の植物や生きものは、盆地に暮らす人たちにとって、貴重な資源の供給地でした。しかし、社会や暮らしのありようの変化とともに、人と森との関係は大きく変化し、その結果、森の姿も大きく様変わりしました。かつての東山は、多様な樹木が生育する明るい森でしたが、いまでは常緑樹中心の暗い森に変貌しています。


人の手が加わって成り立つ「利用する森」


昭和30年代以前の東山は、森に人の手が入ることで維持されていました。人びとは燃料となる薪炭や、肥料になる落ち葉などの天然資源を森から採取し、生活の糧としていました。こうした人為的な撹乱は、森にとってほどよい圧力となり、さまざまな樹種が生育するバランスのとれた森の維持に貢献していました。


シイが優占する「薄暗い森」


薪炭から石油エネルギーへの転換にともない、人びとは森の資源を利用しなくなり、人の手が入ることで維持されていた森は放置されました。昭和50年ごろから「マツ枯れ」が猛威をふるい、マツ林の下層に芽吹いた常緑樹のシイが生長し、シイ林が拡大しました。 その結果、東山の森は、林床に日が差しこまない薄暗い森へと様変わりました。さらに近年は、平成10年代の後半から20年代にかけて「ナラ枯れ」が発生するとともに、過剰に増えたシカによる食害が頻 発し、若木が育たなくなり、森の活性は衰えています。


多様性の高い「豊かな森」の復活を目指して


京都伝統文化の森推進協議会は、かつてのような「多様性の高い森」 へと誘導するために、積極的に森に入り、働きかけています。その一つが、繁茂しすぎた常緑樹のシイを適切な密度まで伐採することです。「木を伐る=自然破壊」と連想されるかもしれませんが、長年にわたって放置され、活力を失った森をふたたび健全な姿に戻すために、「伐採」は避けては通れません。次代の森を担う個性豊かな樹種たちが、それぞれに適した場所でのびのびと生育できることが理想です。私たちはいま、その「舞台づくり」に取り組んでいます。



京都伝統文化の森プロジェクトのサイトにはいくつかのコラムもあり、ざっと覗いてみたが、《明治時代の初め、京都三山は荒廃が進み、あちこちが禿山状態になっていたということをご存知ですか》で始まる高橋義人氏のものが一番勉強になった。




2020年02月21日 

明治初めの上知令で今の京都ができた
高橋義人(京都伝統文化の森推進協議会 文化的価値発信専門委員)

明治時代の初め、京都三山は荒廃が進み、あちこちが禿山状態になっていたということをご存知ですか。江戸時代にはきちんと手入れされていた京都の山々はどうして急に荒廃してしまったのでしょうか。
 
近代化のため乱伐されたと書かれているものが多いようですが、主たる原因は上知令にあります。明治4年と明治8年、明治政府は上知令を発布し、社寺が持っていた広大な領地のうち、境内を除く多くの土地を召し上げました。たとえば高台寺の寺領地はかつて95,047坪ありましたが、それが15,515坪に、清水寺の寺領地156,463坪は13,887坪になりました。それぞれほぼ6分の1と11分の1です。それまで社寺は、領知のなかにある田畑を小作人に貸し与え、人の集まる土地を縁日の業者に貸していました。そうした収入源が絶たれてしまうわけですから、社寺にとっては大変です。上知令が発布された後、実際に上知されるまでの間に、社寺は上知予定地内の立木を次々と伐採してしまいました。こうして京都三山の荒廃と禿山化が進みました。……




この後、上知令の良い面ーー社寺が京都中心部の土地をとりあげられ、京都が発展したーーも五つ挙げられている。①新京極、②南禅寺界隈別荘群、③祇園花見小路界隈、④石塀小路、⑤円山公園。


そうかそうか。かつてひどくお世話になった花見小路は、建仁寺の敷地だったのか、《祇園の四条通から南側の地域、花見小路のある地域は、江戸時代までは建仁寺の敷地でしたが、明治4年、上知令が発布され、建仁寺の北から北東にかけての寺領地約18,000坪が接収されました》。で、石塀小路は《高台寺の塔頭だった圓徳院の境内の一部》なのか。





いやあ、またまたひどいノスタルジーに陥っちまったな、苔寺の丘に。《緋色の筋のまわりにひろがる繊細な苔におおわれた丘》(レミ・ベロー)に。







《愛はノスタルジーである[Liebe ist Heimweh]》(フロイト『不気味なもの』