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2023年3月19日日曜日

苔のエロトスの匂

 


苔寺の苔ってのはあまり美しくないね、この映像で見る限り、緑の深さがなく黄ばんでいる。


[4K] 西芳寺 苔寺・京都 MOSS TEMPLE / SAIHOU-JI KOKE-DERA / KYOTO /JAPAN


私は20代半ばから10年ほどのあいだ西芳寺近くーー自転車で10分程度ーーに住んでいたのだが、苔の美しさに関しては大した印象は残っていないからな。というか当時はあの雰囲気にときに鬱陶しさを感じる不粋な人間だったと言ってもよい。



西芳寺に比べて、桂春院や瑠璃光院の苔は実に美しい、深く青々として。


[4K] Moss Gardens in Kyoto 10 selections 苔の美しい京都の庭10選 瑠璃光院 桂春院



苔は手入れが難しいらしいね、亜熱帯のいま住んでいる処でも最近苔を売り出したので、芝生の一部を剥がして植えてみようかと思ったが、やめとくかな。



海外で絶賛。日本の庭の美しさの秘密|庭師 牧岡一生・編集家 松永光弘





味のある顔した庭師だな、この牧岡一生さん。1945年福井県生まれで、1975年から12年間、作庭家として名高い森蘊に師事したそうだ。


年輪が刻まれた深さ静けさの美だな。


エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)

この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)

生きているということもまた、死の観念におさおさ劣らず、思いこなしきれぬもののようだ。生きていることは、生まれて来た、やがて死ぬという、前後へのひろがりを現在の内に抱えこんでいる。


このひろがりはともすれば生と死との境を、生まれる以前へ、死んだ以後へ、本人は知らずに、超えて出る。(古井由吉『この道』「たなごころ」2019年)




苔の魅力はその見た目以上に、エロトスの匂いの魅力かもしれないよ。



カビや茸の匂いーーこれからまとめて菌臭と言おうーーは、家への馴染みを作る大きな要素だけでなく、一般にかなりの鎮静効果を持つのではないか。すべてのカビ・キノコの匂いではないが、奥床しいと感じる家や森には気持ちを落ち着ける菌臭がそこはかとなく漂っているのではないか。それが精神に鎮静的にはたらくとすればなぜだろう。


菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。〔・・・〕


菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。〔・・・〕


菌臭は、単一の匂いではないと思う。カビや茸の種類は多いし、変な物質を作りだすことにかけては第一の生物だから、実にいろいろな物質が混じりあっているのだろう。私は、今までにとおってきたさまざまの、それぞれ独特のなつかしい匂いの中にほとんどすべて何らかの菌臭の混じるのを感じる。幼い日の母の郷里の古い離れ座敷の匂いに、小さな神社に、森の中の池に。日陰ばかりではない。草いきれにむせる夏の休墾地に、登山の途中に谷から上がってくる風に。あるいは夜の川べりに、湖の静かな渚に。〔・・・〕


もっとも、それは過去の歴史の記憶だけだろうか。菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」1986年『家族の深淵』所収)



しかし思い返せば、京都というのはそこらじゅうにデルタがある街だね、祇園の女や巫女のデルタだけじゃなく。






そうしようとは思っていなかったのにとりあえず鈴を鳴らし、社に手を合わせたあと、振り向いて川を見下ろした千種は、


「今日も割れ目やねえ。」


 川が女の割れ目だと言ったのは父だった。生理の時に鳥居をよけるというのと違って、父が一人で勝手に言っているだけだった。上流の方は住宅地を貫く道の下になり、下流では国道に蓋をされて海に注いでいる川が外に顔を出しているのは、川辺の地域の、わずか二百メートルほどの部分に過ぎず、丘にある社からだと、流れの周りに柳が並んで枝葉を垂らしているので、川は、見ようによっては父の言う通りに思えなくもない。(田中慎弥『共喰い』)



という話はさておき、Yurara Sararaさん、まだ若い方のようだが、実に素晴らしい映像作家だなぁ

[4K] 京都の朝 ベスト25景 Best 25 Morning Scenery of Kyoto



こんなの完全にノスタルジーになっちゃうよ



ロマン主義的な追憶の描写における最大の成功は、かつての幸福を呼び起こすことではなく、きたるべき幸福がいまだ失われていなかった頃、希望がまだ挫折していなかった頃の追想を描くことにある。かつての幸福を思い出し、嘆く時ほどつらいものはない――だがそれは、追憶の悲劇という古典主義的な伝統である。ロマン主義的な追憶とは、たいていが不在の追憶、一度たりとも存在しなかったものの追憶である。

The most signal triumphs of the Romantic portrayal of memory are not those which recall past happiness, but remembrances of those moments when future happiness still seemed possible, when hopes were not yet frustrated. There is no greater pain than to remember past happiness in a time of grief―but that is the Classical tradition of the tragedy of memory. Romantic memories are often those of absence, of that which never was.

(チャールズ・ローゼンCharles Rosen, The Romantic Generation 1995)