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2023年3月19日日曜日

様々なるフェティシズム(小林秀雄)


1929年の小林秀雄、1902年生まれだから27歳のときの小林秀雄は、マルクスに触れつつこう書いている。


吾々にとつて幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。遠い昔、人間が意識と共に与へられた言葉といふ吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。而も、若し言葉がその人心眩惑の魔術を捨てたら恐らく影に過ぎまい。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)


人の世に水が存在した瞬間に、人は恐らく水といふものを了解したであらう。然し水をH2O をもつて表現した事は新しい事である。 芸術家は常に新しい形を創造しなければならない。だが、彼に重要なのは新しい形ではなく、新しい形を創る過程であるが、この過程は各人の秘密の闇黒である。然し、私は少なくとも、この闇黒を命とする者にとつて、世を貨幣の如く、商品の如く横行する、例へば、「写実主義」とか「象徴主義」とかいふ言葉が凡そ一般と逕庭ある意味を持つといふ事は示し得るだらう。

諸君の脳中に於いてマルクス観念学なるものは、理論に貫かれた実践でもなく、実践に貫かれた理論でもなくなつてゐるではないか。 正に商品の一形態となって商品の魔術をふるってゐるではないか。 商品は世を支配するとマルクス主義は語る、だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、 それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものである。(小林秀雄「様々なる意匠」1929年)




《劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない》、《世を貨幣の如く、商品の如く横行する、例へば、「写実主義」とか「象徴主義」とかいふ言葉》、あるいは《商品は世を支配するとマルクス主義は語る、だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、 それは立派な商品》とあるが、この小林秀雄は事実上、「言葉はフェティシズムだ」と言っている。「様々なる意匠」はまずは「様々なるイデオロギー」であるとしても、さらに言えば「様々なるフェティシズム」であるだろう。



貨幣フェティッシュの謎は、ただ、商品フェティッシュの謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない[Das Rätsel des Geldfetischs ist daher nur das sichtbar gewordne, die Augen blendende Rätsei des Warenfetischs. ](マルクス『資本論』第一巻第ニ章「交換過程」)

商品のフェティシズム…それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.](マルクス 『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)



小林秀雄は頭が良過ぎたんだよ、現在の凡庸なマルクス読みとは大違いだね。


ここでまともなマルクス読みの柄谷とラカンを挙げておこう。


マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)

人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある。

pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement  a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.  (Lacan, S4, 21 Novembre 1956)



1970年代のラカンのセミネールの熱心な受講者だったクリスティヴァはこう言っている。

しかし言語自体が、我々の究極的かつ分離し難いフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシスト的否認を基盤としている(「私はそれをよく知っているが、同じものとして扱う」「記号は物ではないが、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、話す存在の本質としての私たちを定義する。

Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? Lui qui précisément repose sur le déni fétichiste ("je sais bien mais quand même", "le signe n'est pas la chose mais quand même", …) nous définit dans notre essence d'être parlant.(ジュリア・クリスティヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)





現在のとってもチョロい学者やら思想家やらの本など読む暇があったら、小林秀雄を読むほうがずっといいぜ。


彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」――中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』所収)



もっともまともな頭脳を持ちながら、ゴネてる奴らがいることはいるがね➡︎「小林秀雄批判(坂口安吾、高橋悠治、蓮實重彦)」



これらも結局次の安吾の言葉に尽きるね、


僕は人にヤッツケられて腹を立てることは少い。編輯者諸君は僕が怒りんぼで、ヤッツケられると大憤慨、何を書くか知れないと考へてゐるやうだけれども、大間違ひです。僕自身は尊敬し、愛する人のみしかヤッツケない。僕が今までヤッツケた大部分は小林秀雄に就てです。僕は小林を尊敬してゐる。尊敬するとは、争ふことです。(坂口安吾「花田清輝論」初出:「新小説 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日発行)


最近の日本の批評家や学者には、東浩紀やら千葉雅也やらとまったくヤッツケる気にならないヤツしかいなからな。他にもマルクス学者の斎藤浩平くんってのがいて世界的に売れてるらしいが、笑いの対象でしかないよ、あのボウヤは。環境問題フェティシストだな、アイツは。事実上の世界資本主義の手先じゃないかね。


以下のは噂話だが。





「彼はそれを知らないが、世界資本主義の手先になっている」、これがマルクスの最も有名な教えのひとつだーー《彼らはそれを知らないが、そうする[ Sie wissen das nicht, aber sie tun es]》(マルクス『資本論』第1巻「一般的価値形態から貨幣形態への移行」)


そして27歳の小林秀雄の教えでもある、ーー《劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。》


どうしてまともなマルクス読みがアイツに耐えられよう?






や、シツレイしました、粗雑な放言をしてしまって。


林房雄の放言という言葉がある。彼の頭脳の粗雑さの刻印の様に思われている。これは非常に浅薄な彼に関する誤解であるが、浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。〔・・・〕


「俺の放言放言と言うが、みんな俺の言った通りになるじゃないか」と彼は言う。言った通りになった時には、彼が以前放言した事なぞ世人は忘れている。「馬鹿馬鹿しい、俺は黙る」と彼は言う。黙る事は難しい、発見が彼を前の方に押すから。又、そんな時には狙いでも付けた様に、発見は少しもないが、理屈は巧妙に付いている様な事を言う所謂頭のいい人が現れる。林は益々頭の粗雑な男の様子をする始末になる。(小林秀雄「林房雄」)