このブログを検索

2023年3月18日土曜日

フロイトの並はずれて頑強な、陰気な人柄(小林秀雄)

 

小林秀雄のフロイトへの言及をめぐるが、まずフロイトの『自己を語る』の一節をかかげる。

精神分析とショーペンハウアーの哲学との大幅な一致、ーー彼は情動の優位と性の際立った重要さを説いただけでなく、抑圧の機制すら洞見していたーーは、私がその理論を熟知していたがためではない。ショーペンハウア一を読んだのは、ずっと後になってからである。哲学者としてはもう一人ニーチェが、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている。だからこそ、私は彼を久しく避けてきたのだ。私が心がけてきたのは、誰かに先んじることにもまして、とらわれない態度を持することである。


Die weitgehenden Übereinstimmungen der Psychoanalyse mit der Philosophie Schopenhauers — er hat nicht nur den Primat der Affektivität und die überragende Bedeutung der Sexualität vertreten, sondern selbst den Mechanismus der Verdrängung gekannt — lassen sich nicht auf meine Bekanntschaft mit seiner Lehre zurückführen. Ich habe Schopenhauer sehr spät im Leben gelesen. Nietzsche, den anderen Philosophen, dessen Ahnungen und Einsichten sich oft in der erstaunlichsten Weise mit den mühsamen Ergebnissen der Psychoanalyse decken, habe ich gerade darum lange gemieden; an der Priorität lag mir ja weniger als an der Erhaltung meiner Unbefangenheit.

(フロイト『自己を語る』1925年)



……………


以下、1959年の小林秀雄である。読み逃していたがーーというか以前に何度か読んでいるので記憶に残っていなかったと言ったほうがいいがーー、とてもいい。フロイトの《並はずれて頑強な、陰気な人柄》とか、《一と口で言えば、ショーペンハウアーやニイチェが、その全人格を現したその丁度同じ場所で、人格を隠そうと努めた人》とか、現代人は《現実に飛び込んでいるところが、太古以来変らぬ心の海である事には、決して気づきたがらない》とか、《反省が「冥府」までとどかないから、要もない「天上の神々」を作り出す》とか、《口先では個性を言い、自主性を説きながら、実は片足を集団のメカニズムのなかに突っ込んでいる》等々。



精神分析学というものが今日、どんな分派に分れ、どんな事をやっているかは、専門家にしかわからない事だろうが、幾多の反対論にもかかわらず、その学説の大要は、抗し難い力で、現代人の教養のうちに滲透し、そこに根を下して了った事は争えない。この影響力は、私の常識にとっては、学説の部分的な真偽より、よほど大事な事のように思われる。何故かというと、私は私なりに、この影響下にさらされて来たからだ。 最近、フロイトの「自伝」の翻訳が出たので、読んでみた。これは、努めて感情を避けて、自分の学説の歴史を記述したものだが、鮮かに現れていたのは、彼の並はずれて頑強な、陰気な人柄であった。それは何処から現れ出たものだろうか。これは難しい問題だ。しかし、理性的意識の優越と支配とに対する彼の呪詛が、一般に或は実際に、人々の心の上にどう作用したかという事もかなり陰気な不透明な性質のもののように思われる。


意識された自我とは、自我という大海の海上に、立ったり消えたりする波に過ぎない。意識と呼ばれるものは、無意識と呼んでいい心的実在に、後から附け加わったり、附け加わらなかったりする事の出来るものに過ぎない。この精神分析学が立つ基本的な考えは、フロイトの「自伝」のなかで語られているように、心的事実の、何の先入主もない、前提を廃した、忍耐強い観察に基づくものであった。彼の劃期的な発見は、理窟の上から言えば、意識の自己欺瞞を解くべき筈だったが、実際には、欺瞞の糸をいよいよ縺れさせて了ったのではないか、と私は疑う。 発見者の誠意などが、発見の勝手な利用者達にとって無意味なのは、普通の事だろうか。それとも、責めはフロイトにもあったのだろうか。


意識以前の無意識も、意識による説明をまたねばならぬ。意識から独立した心の構造も、理性的意識による再構成、それも遠い迂路を踏む、あれこれと手段を尽さねばならぬ再構成をまたなければならない。この厄介な手法にフロイトが堪えたという事は、心という実在の気味の悪い拡がりに関する彼自身の体験と離す事は出来ない。それは、「自伝」から、はっきりわかる事だ。彼には、心の世界が、物質の世界と同様に、確乎たる存在である事について、常人の思いも及ばぬ切実な経験があったのである。微量の毒物が人を殺すように、ささやかな観念が人を発狂させる。衝動の起原は、物的エネルギーの起原同様に暗い。私の心は、私の自由になるような、私に見透しの利くようなやくざな実在ではない。 私は、自分の心という、 或る名附けようもない重荷を背負わされている。この全重量の経験が、ショーペンハウアーにもニイチェにもあった事を見た。彼等の人間に関する洞察が、自分が苦労を重ねた観察の帰結に、驚くほど合致するのを見た。だが、自分は抑制した、と彼は言っている。フロイトは、彼等が敢行したように、心という怪物の全体的な直観から発言する事を抑制した。彼の科学者としての良心は、怪物の哲学的意味附けを、出来るだけ避けようとした。 一と口で言えば、ショーペンハウアーやニイチェが、その全人格を現したその丁度同じ場所で、人格を隠そうと努めた人である。これが、「自伝」が、極めて単純な言葉で、私に明かしてくれた意味深長な事実である。「抑制が容易であったのは、私の体質によった」と彼は言う。ここに、彼が隠した全人格の、彼としては必要且つ充分とした直接表現がある。


現代の教養は、フロイトが、自分の人格を努めて隠したところへ、まことに狡猾につけ入ったように思われる。 人格という贋物の権威は崩壊した。 眼に見えぬというだけの詰らぬ理由から有難がられていた精神も、分析され分類され、物品なみに正札がつけられた。解放は到来したのである。リビドの海? もう古い、新しい心理学でも少し読んだらどうだ、心理学者まで、そんな事を言っている。現実に飛び込んでいるところが、太古以来変らぬ心の海である事には、決して気づきたがらない。自我というものが、一種の知的玩弄物と化したという安心感で手一杯だからである。だからこそ、不安の文学でも絶望の文学でも、倒錯小説も叛逆小説もわけはないという事になる。フロイトは意識の自負と戦ったのであるが、フロイディスムの挑撥したものは、分裂した意識の新しい形の自負らしい。だが、この自負は、個性を誇示しながら、全く安定を欠いているのである。


何故かというと、この自負は、新しい心理学が与えてくれる自我の不在証明にしがみ附いているだけだからだ。フロイトは、「夢判断」で、人間の心という「冥府」を動かそうとしたのだが、「冥府」を覗くには、「強い自我」が要るとは警告しなかった。 恐らく、そんな事は、彼には自明な事だったし、科学者としてそんな忠告の必要も認めなかったのである。彼は恐るべき仕事の為に、自己を「抑制」した。彼はこの仕事の為の心の準備を自慢するような馬鹿ではなかったから、抑制は自分には体質的に容易であった、と言うに止めたのである。この言葉は心理学ではない。彼の良心と意志とを語っている。フロイディスムはこのフロイトという人間を欠いている。彼が自伝で語った「抑制」は無視され、彼の学説の「抑圧」という言葉だけが流行したと言ってよい。


反省が「冥府」までとどかないから、要もない「天上の神々」を作り出す。意識が意識を反省する事に甘んじていては、自我が生れて来るもう一つの自我という基盤は眼に入らぬ。意識は、様々な仮面を被る。 新しい心理学が試みた仮面の破壊作業が、もし、一層真面目な内的経験に人々を誘う力を蔵していないのなら、それは全く無意味な仕事だ。フロイディスムに、命があるかないかは、その点に、ただその点だけにかかっているように思われる。だが、現代の心理的文学が、最も明瞭に示すところは、内的経験への侮蔑なのである。大した事なぞ一つもない、みんな心理の問題に還元出来る、と言っているのだ。


心理的という言葉は外的という言葉と同じ意味に使われている。観察されているのは、もっぱら心の解体現象である。そして、これをリアリズムと称している。だが、リアリズムという手法を用いる作者リアリスト達は、自分のリアリストという人格について、どのような確信を持っているのだろうか。確信を持っているなら、その確信は、どのような内的経験の統一の結果なのだろうか。どのような自己抑制の努力の結果なのか。すると、そんな事は一切知らぬと彼等は答えるだろう。そんな事に心を労しては、陳腐な私小説が出来上って了う、と答えるだろう。 どうも仕方がない。心理学というものは難かしい。 私の心理学から言えば、彼等のリアリズムとは、自己との戯れの直訳に過ぎない。だが、まさしく其処に、彼等の自負がある。「冥府」の合理的構造は明らかになった。それは社会の合理的構造に、同じ延長の上で直結している。従って、ここから、個性とは外部への適応能力であり、個性の育成とは、この能力の拡大以外のものではない、という考え方の強い傾向が生ずる。これでは、口先では個性を言い、自主性を説きながら、実は片足を集団のメカニズムのなかに突っ込んでいるようなものだ。商売の合い間に、バスをつらね、風船を飛ばす事が、政治的関心による個性の社会的拡張だという事にもなる。(小林秀雄「歴史」1959年)




ひとつだけ、小林秀雄のいう《意識された自我とは、自我という大海の海上に、立ったり消えたりする波に過ぎない》とは、十分ではない。自我という大海は既に「前意識」になったものであり、さらに底には外傷性期記憶という「本来の無意識」としてのエスの大海がある。ーー《人の発達史と人の心的装置において、〔・・・〕原初はすべてがエスであったのであり、自我は、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核として置き残された 。die Entwicklungsgeschichte der Person und ihres psychischen Apparates […] Ursprünglich war ja alles Es, das Ich ist durch den fortgesetzten Einfluss der Aussenwelt aus dem Es entwickelt worden. Während dieser langsamen Entwicklung sind gewisse Inhalte des Es in den vorbewussten Zustand gewandelt und so ins Ich aufgenommen worden. Andere sind unverändert im Es als dessen schwer zugänglicher Kern. 》(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第4章、1939年)。これは別の言い方なら、《自我はエスの組織化された部分に過ぎない[das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es. ]》(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)であり、前意識とはエスではなくこの組織化された自我の審級にある。


ここで日本のトラウマ研究第一人者と言ってよいだろう中井久夫を引く。



一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



この異物ーーラカン派文脈では「異者としての身体」、あるいは単純に異者と示されることが多いーーがフロイトの「本来の無意識」としてのトラウマの記憶かつエスの欲動蠢動であり、ラカンの現実界である。



精神分析が無意識をさらに区別し、前意識本来の無意識に分離するようになった経緯を簡潔に説明するのは、もっと難しい。

Schwieriger wäre es, in kurzem darzustellen, wie die Psychoanalyse dazu gekommen ist, das von ihr anerkannte Unbewußte noch zu gliedern, es in ein Vorbewußtes und in ein eigentlich Unbewußtes zu zerlegen. (フロイト『自己を語る』第3章、1925年)



◼️異者としての身体=本来の無意識=エスの欲動蠢動=トラウマの記憶

異者としての身体は本来の無意識としてエスのなかに置き残されている[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)


私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)




現実界=モノ=異者である。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne (…) ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)


ーー《現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ]》(J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


さらに異者概念は不気味なものと等価である。


異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要)



フロイトにとってこの異者なる不気味なものこそ、反復強迫=永遠回帰するヒトのデモーニッシュな運命強迫である。


いかに同一のものの回帰という不気味なものが、幼児期の心的生活から引き出しうるか。Wie das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr aus dem infantilen Seelenleben abzuleiten ist〔・・・〕


心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。


Im seelisch Unbewußten läßt sich nämlich die Herrschaft eines von den Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges erkennen, der wahrscheinlich von der innersten Natur der Triebe selbst abhängt, stark genug ist, sich über das Lustprinzip hinauszusetzen, gewissen Seiten des Seelenlebens den dämonischen Charakter verleiht,〔・・・〕


不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせるものである[daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann.](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)

同一の出来事の反復[Wiederholung der nämlichen Erlebnisse]の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)



要するに、フロイトにとって「異者としての身体のレミニサンス」と「不気味なものの永遠回帰」は等価であり、これがラカンの現実界のレミニサンスである(先に引用した中井久夫の「外傷性フラッシュバック」はこのレミニサンスである)。


最晩年のラカンは《現実界は書かれることを止めない[le Réel ne cesse pas de s'écrire ]》(Lacan, S 25, 10 Janvier 1978)といったが、これは「現実界は永遠回帰する」と言い換えたってよいのである。あるいは現実界のトラウマは傷つけることを止めないと。ーー《「記憶に残るものは灼きつけられたものである。傷つけることを止めないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。»Man brennt etwas ein, damit es im Gedächtnis bleibt: nur was nicht aufhört, wehzutun, bleibt im Gedächtnis« - das ist ein Hauptsatz aus der allerältesten (leider auch allerlängsten) Psychologie auf Erden.》(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文第3節、1887年)




異者の話にもどれば、フロイトはロマン・ロラン70歳の誕生祝いの手紙でこうも書いている。

疎外(異者分離 Entfremdungen)は注目すべき現象です。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察されます。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかです。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, […] Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)




…………………


小林秀雄はニーチェの名も出しているので、最後にツァラトゥストラのグランフィナーレ「酔歌」からも引いておこう。


いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?


- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第3節、1885年)