「愛はノスタルジー Liebe ist Heimweh」(フロイト『不気味なもの』)ーー何よりもまずこれを認めることだよ。神への愛たら至高の愛たら寝言を言ってたらダメだ。原愛はオメコへのノスタルジーにきまっている。あとはすべて代理物であり要するに嘘だ。 |
ノスタルジー |
この言葉は1688年にスイスの医学生、ヨハネス・ホーファー (Johannes Hofer:1669-1752) によって新しくつくられた概念である。2つのギリシャ語(「nostos」:帰郷、および「algos」:心の痛み)を基にして造った合成語で、「故郷へ戻りたいと願うが、二度と目にすることが叶わないかも知れないという恐れを伴う病人の心の痛み」とされた。(Wikipedia) |
ーーJohannes Hofer, Nostalgie Heimwehe oder Heimsehnsucht (1688) |
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我等の故郷に歸らんとする、我等の往時の状態に還らんとする、希望と欲望とを見よ。如何にそれが、光に於ける蛾に似てゐるか。絶えざる憧憬を以て、常に、新なる春と新なる夏と、新なる月と新なる年とを、悦び望み、その憧憬する物の餘りに遲く來るのを歎ずる者は、實は彼自身己の滅亡を憧憬しつつあると云ふ事も、認めずにしまふ。しかし、この憧憬こそは、五元の精髓であり精神である。それは肉體の生活の中に幽閉せられながら、しかも猶、その源に歸る事を望んでやまない。自分は、諸君にかう云ふ事を知つて貰ひたいと思ふ。この同じ憧憬が、自然の中に生來存してゐる精髓だと云ふ事を。さうして、人間は世界の一タイプだと云ふ事を。(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』芥川龍之介訳(抄譯)大正3年頃) |
Or vedi la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume, dell'uomo che con continui desideri sempre con festa aspetta la nuova primavera, sempre la nuova state, sempre e' nuovi mesi, e' nuovi anni, parendogli che le desiderate cose venendo sieno troppe tarde, e non s'avede che desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi, che trovandosi rinchiusa pro anima dello umano corpo desidera sempre ritornare al suo mandatario. E vo' che s'apichi questo medesimo desiderio en quella quintaessenza compagnia della natura, e l'uomo è modello dello mondo.(Codice Leonardo da Vinci) |
いくらでもあるが、額面通り読めない人がほとんどなんだろうよ。
汝はわが最も内なる部分よりもなお内にいまし、わが最も高き部分よりもなお高くいましたまえり(tu autem eras interior intimo meo et superior summo meo (聖アウグスティヌス「告白」 Augustinus, Confessiones、397-398年) |
われら糞と尿のさなかより生まれ出づ inter faeces et urinam nascimur (聖アウグスティヌス「告白」 Augustinus, Confessiones、397-398年) |
すさのをのみことが、青山を枯山なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、われ〳〵の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。(折口信夫「妣国へ・常世へ 」『古代研究 民俗学篇第一』1929年) |
……「妣が国」と言ふ語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母と言ふ義である。(折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」『古代研究 民俗学篇第一』1929年) |
ーー《匕は、妣(女)の原字で、もと、細いすき間をはさみこむ陰門をもった女や牝(めす)を示したもの。》(漢字源)
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フロイトにおいては母でさえオメコの代理品に過ぎない。
不安は乳児の心的な寄る辺なさの産物である。この心的寄る辺なさは乳児の生物学的な寄る辺なさの自然な相同物である。die Angst als Produkt der psychischen Hilflosigkeit des Säuglings, welche das selbstverständliche Gegenstück seiner biologischen Hilflosigkeit ist. 出産不安も乳児の不安も、ともに母からの分離を条件とするという、顕著な一致点については、なんら心理学的な解釈を要しない。Das auffällige Zusammentreffen, daß sowohl die Geburtsangst wie die Säuglingsangst die Bedingung der Trennung von der Mutter anerkennt, bedarf keiner psychologischen Deutung; |
これは生物学的にきわめて簡単に説明しうる。すなわち母自身の身体器官が、原初に胎児の要求のすべてを満たしたように、出生後も、部分的に他の手段でこれを継続するという事実である。es erklärt sich biologisch einfach genug aus der Tatsache, daß die Mutter, die zuerst alle Bedürfnisse des Fötus durch die Einrichtungen ihres Leibes beschwichtigt hatte, dieselbe Funktion zum Teil mit anderen Mitteln auch nach der Geburt fortsetzt. 出産行為をはっきりした切れ目と考えるよりも、子宮内生活と原幼児期のあいだには連続性があると考えるべきである。Intrauterinleben und erste Kindheit sind weit mehr ein Kontinuum, als uns die auffällige Caesur des Geburtsaktes glauben läßt. 心理的な意味での母という対象は、子供の生物的な胎内状況の代理になっている。忘れてはならないことは、子宮内生活では母はけっして対象にならなかったし、その頃は、いったい対象なるものもなかったことである。 Das psychische Mutterobjekt ersetzt dem Kinde die biologische Fötalsituation. Wir dürfen darum nicht vergessen, daß im Intrauterinleben die Mutter kein Objekt war und daß es damals keine Objekte gab. (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
で、この不安は不快と等価でありーー《不快(不安)[ Unlust-(Angst).]》(『制止、症状、不安』第2章)ーー、ラカンの享楽であり、穴だ。 |
不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970) |
享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない。[ la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
巷間で愛と呼ばれるものは、この「リアルな愛=享楽の穴」(参照)の穴埋めあるいは隠喩に過ぎない。 |
愛は穴を穴埋めする。l'amour bouche le trou.(Lacan, S21, 18 Décembre 1973) |
愛は隠喩である。l’amour est une métaphore, (Lacan, S8, 30 Novembre 1960) |
すなわち嘘である。 |
症状は隠喩である le symptôme est métaphore (J.-A. MILLER, L'ÊTRE ET L'UN, 09/03/2011) |
症状は現実界についての嘘である。Le symptôme est un mensonge sur le réel (J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique, 18/12/96) |
➡︎「オメコが欲しないものはあろうか」