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2023年3月25日土曜日

左翼と右翼

 

何度か掲げているドゥルーズの左翼と右翼の定義がある。


左翼であることは、先ず世界を、そして自分の国を、家族を、最後に自分自身を考えることだ。右翼であることは、その反対である[Être de gauche c’est d’abord penser le monde, puis son pays, puis ses proches, puis soi ; être de droite c’est l’inverse](ドゥルーズ『アベセデール』1995年)


左翼/右翼は種々の捉え方があるが、このドゥルーズは原理的に考えた最も簡潔な定義のひとつだろう。




この定義だと祖国愛自体、いくぶんか左翼となる。例えば祖国のために死ぬとは、自分自身を犠牲にしての振る舞いだから。


人はみな根のところでは右翼だ。飢えれば、自分自身が最も重要になる。



◼️飢えによるエゴイズムへの回帰

一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいしたり、母が子を捨てて逃げていく

私は疲れきっていた。虚脱状態だった。火焔から逃げるのにふらふらになっていたといっていい。何を考える気力もなかった。それに、私は、あまりにも多くのものを見すぎていた。それこそ、何もかも。たとえば、私は爆弾が落ちるのを見た。…渦まく火焔を見た。…黒焦げの死体を見た。その死体を無造作に片づける自分の手を見た。死体のそばで平気でものを食べる自分たちを見た。高貴な精神が、一瞬にして醜悪なものにかわるのを見た。一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいしたり、母が子を捨てて逃げていくのを見た。人間のもつどうしようもないみにくさ、いやらしさも見た。そして、その人間の一人にすぎない自分を、私は見た。(『小田実全仕事』第八巻六四貢)



私の世代、つまり敗戦の時、小学五、六年から中学一年生であった人で「オジイサンダイスキ」の方が少なくない…。明治人の美化は、わが世代の宿痾かもしれない。私もその例に漏れない。大正から昭和初期という時代を「発見」するのが実に遅かった。祖父を生きる上での「モデル」とすることが少なくなかった。…


最晩年の祖父は私たち母子にかくれて祖母と食べ物をわけ合う老人となって私を失望させた。昭和十九年も終りに近づき、祖母が卒中でにわかに世を去った後の祖父は、仏壇の前に早朝から坐って鐘を叩き、急速に衰えていった。食料の乏しさが多くの老人の生命を奪っていった。二十年七月一八日、米艦船機の至近弾がわが家をゆるがせた。超低空で航下する敵機は実に大きく見えた。祖父は突然空にむかって何ごとかを絶叫した。翌日、私に「オジイサンは死ぬ。遺言を書き取れ」と言い、それから食を絶って四日後に死んだ。(中井久夫「Y夫人のこと」初出1993年『家族の深淵』所収)




飢餓だけではない。病気になればエゴイズムになる。歯痛でさえもそうだ。



◼️病気によるエゴイズムへの回帰

器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心[libidinöse Interesse] を自分の愛の対象[Liebesobjekten] から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。


このような事実が月並みだからといって、これをリビドー理論[ Libidotheorie] の用語に翻訳することをはばかる必要はない。したがってわれわれは言うことができる、病人は彼のリビドー 備給[Libidobesetzungen]を彼の自我の上に引き戻し、全快後にふたたび送り出すのだと。


W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している[Einzig in der engen Höhle]」と述べている。リビドーと自我の関心[Libido und Ichinteresse]とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心[intensiver Liebesbereitschaft]が、肉体上の障害のために追いはらわれ、突然、完全な無関心[völlige Gleichgültigkeit]にとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)



我思う、ゆえに我ありは、歯痛を見くびる知識人の言い草である。我感ず、ゆえに我ありは、もっとずっと一般的な効力があり、どんな生物にもかかわる真理である。私の自我は、本質的には思考によってあなたの自我と区別されるのではない。ひと多けれど、想念少なし。われわれは誰しも想念をたがいに伝達しあったり、借用しあったり、盗みあったりしながらほぼ同じことを考えている。しかし、もし誰かが私の足を踏んづけても、苦痛を感じるのは私ひとりだ。自我の根拠は思考ではなく、もっとも基本的な感情である苦しみである。(クンデラ『不滅』第四部「ホモ・センチメンタリス」)



人はみな根源的には右翼だ。だが、人は自分自身だけでは生きていけない。自給自足できる人はいない。特に現在の世界資本主義の下ではいっそうそうだ。人は世界を考えずにはいられない。人はみな何らかの形で左翼とならざるを得ない。





もっともこの図はポジ面とネガ面を考慮せねばならない。


例えばこうだ。


自分自身の安全を願うために世界の平和を願う、つまり左翼となる

自分自身の権力欲を満たすため世界支配を狙う、つまり左翼となる



左翼という語が蔑称として使われるのは、権力欲のネガ面である。典型的なのは米国ネオコンの振舞や世界経済フォーラムの面々への批判としての「左翼」。



他方、巷間のネトウヨの代表される右翼がいる。


想像力を欠くすべての人は現実へと逃避する[Tous ceux qui manquent d'imagination se réfugient dans la réalité](ゴダール, Adieu au Langage, 2014)


想像力を欠く彼らは、自分自身に逃げる、つまり右翼のまま留まる。


左翼と右翼はこんな簡単に言いうる概念ではないという人がいるだろうことは知っている。ここに記したのはたんなるひとつのモデルに過ぎない。


…………………


私がここで言いたいのは、アングロサクソンネオコンや世界経済フォーラム(WEF)などを「左翼」として批判している人は実に「左翼的な」人が多いということである。


言葉の意味は、言語内におけるその使用法である[Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache.](ウィトゲンシュタイン『哲学探究』第43節)


言語ゲームが変化するとき、概念も変化し、概念とともに言葉の意味も変化する[Wenn sich die Sprachspiele ändern, ändern sich die Begriffe, und mit den Begriffen die Bedeutungen der Wörter.](ウィトゲンシュタイン『確実性について』65節)

伝達という言語ゲームは何なのだろうか? [Was ist das Sprachspiel des Mitteilens?]

私は言いたい、あなたは人が誰かに何かを伝達できるということを、あまりにも自明なことと見なしすぎている。つまりわれわれは、会話において言語を使った伝達にとても慣れてしまっているので、伝達において重要なことの全ては、他人が私の言葉の意味 ―― 心的な何か ―― を把握する、いわば彼の心のうちに受け入れることの中にある、と思っている[Ich möchte sagen: du siehst es für viel zu selbstverständlich an, daß man Einem etwas mitteilen kann. Das heißt: Wir sind so sehr an die Mitteilung durch Sprechen, im Gespräch, gewöhnt, daß es uns scheint, als läge der ganze Witz der Mitteilung darin, daß ein Andrer den Sinn meiner Worte - etwas Seelisches - auffaßt, sozusagen in seinen Geist aufnimmt. ]

(ウィトゲンシュタイン『哲学研究』363節)