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2023年3月27日月曜日

「自分の言葉」について

 

テクストとは、無数にある文化の中心からやってきた引用の織物である[ le texte est un tissu de citations, issues des mille foyers de la culture.](ロラン・バルト『作家の死』1967年) 

もはや、われわれには引用しかないのです。言語とは、引用のシステムにほかなりません。(ボルヘス 『砂の本』1975年)



ボクはもはやあまりヤボなことは言いたくないがね、知的退行の世紀だからな、「自分の言葉」なるものが何かをまったく問わない精神をオチョクルつもりはないよ(?)。でも20世紀後半は上のバルトやボルヘスのたぐいの言葉が「一般常識」だったんだな、ワカルカイ?



21世紀のボク珍にはロマン派が多いようだがね。


福田和也)ぼくは、書くことはみな「なぞり書き」だと思う。あらゆる意味でなぞり書きであって、それこそド・マンが、古典主義は意識的ななぞり書きをやって、ロマン主義は無自覚ななぞり書きだという言い方をしている。要するになんにもなしに書くことなんていうことはありえないわけで、いずれもなぞり書きである。ただそれに対して自覚的な人が批評家で、無自覚な人が批評家でないというわけではない。自覚的でありながら、それを非顕在的にするのが一応近代小説だったと思う。それがなぞり書きであるということは、非顕在的で、ナラティヴには表われない。それに対して批評というのは、無自覚な人であっても、それはなぞり書きだということがわかる構造になっているのが近代までの性格だったのでしょうね。(共同討議「批評の場所をめぐって」『批評空間』1996Ⅱ-10 )


自覚的であるか否かは必ずしも重要でないと批評家福田和也は言っていると読めるが、自覚的なほうが「豊かなアウラ」が出るらしいぜ、詩人松浦寿輝によれば。



どの語彙を選ぶかどの構文を採るか、その選択の前で迷う自由はあっても、新たな選択肢そのものを好き勝手に発明することは禁じられているのだから、語る主体としての「わたし」が自分自身の口にする言葉に対して発揮できる個性など高が知れている。


しかし、実はこの制約と不自由こそ、逆に「わたし」が独我論的閉域から開放されるための絶好の契機なのである。どんな些細な言葉ひとつでもそれを唇に乗せたとたん、「わたし」は他者のシステムに乗り入れることになる。それを言い表そうとしないかぎり「わたし」自身に属する独自な感覚であり思考であると思われたものも、口に出すやいなや如何ともしがたく凡庸な言葉の連なりとして「わたし」自身の鼓膜によそよそしく響き、幻滅を味わうというのはよくある体験なのではあるまいか。自分の奥底まで届いた唯一のかけがえのない貴重な出来事を言葉にしようと試みて、語れば語るほど言葉がよそよそしく遠ざかってゆくというもどかしさが、われわれをしばしば苛立たせていないか。


だが、このよそよそしさとこのもどかしさこそ、言語の実践を彩っているもっとも豊かなアウラと言うべきものなのである。よそよそしさの溝を何とか跨ぎ越えよう、触れえないものに何とか触れようとして虚空をまさぐる宙吊りの時間のもどかしさに耐えながら、「わたし」は言葉を欲望する。言葉という他者に刺し貫かれることで豊かになりたいと願うのだ。


そんなとき、言葉は、まさしくあの「わたし」をうっとりさせる春宵の風の正確な等価物となる。むしろ、受精の機会を求めて風に乗って飛散する花粉のような何ものかと言うべきかもしれぬ。そして、よそよそしさともどかしさそのものを快楽に転じながら「わたし」が辛うじて声に出したり紙に書き付けたりしえた発語の軌跡とは、あたかもこの濃密な花粉を顔いっぱいに浴びてしまった人体に現れる過剰な免疫反応としての花粉症の症状にでも譬えられるかもしれぬ。他者のシステムとしての言語を前にした発語のもどかしさの快楽とは、眼の痒さやくしゃみを堪えながらしかし鼻孔をくすぐる花の香に陶然とすることをやめられずにいる者の、甘美なジレンマに似ている。(松浦寿輝『官能の哲学』2001年)




先に戻って、もっと話を簡単にすれば、ヴァレリーだって20世紀前半に既にこう言ってんだよ。


人は他者と意志の伝達をはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。


かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にしてーー自分自身に語りかけることを覚えたのだ。


自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。(ポール・ヴァレリー『カイエ』二三・七九〇 ― 九一、恒川邦夫訳)

※恒川邦夫注:他者は言語。



ラカン派変奏なら次の通り。

主体の生の真のパートナーは、実際は、人間ではなく言語自体である[le vrai partenaire de la vie de ce sujet n'était en fait pas une personne, mais bien plutôt le langage lui-même ](ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)



………………



とはいえーー、である。「自分の言葉」ではなく「自分の身体の言葉」はある。例えば「自分の声」は。



バルトは1967年に『作家の死』で「引用の織物」を言った後、1973年の『快楽のテキスト』で「声の粒」を言うようになる。


◼️引用の織物[un tissu de citations]

テクストとは、無数にある文化の中心からやってきた引用の織物である。〔フローベールの〕『プヴァールとペキッシュ』、この永遠の写字生たちは崇高であると同時に喜劇的で、その深遠な滑稽さはまさしくエクリチュールの真理を示しているが、この二人に似て作家は、常に先行するとはいえ決して起源とはならない、ある動作を模倣することしかできない。彼の唯一の権限は、いくつかのエクリチュールを混ぜあわせ、互いに対立させ、決してその一つだけに頼らないようにすることである。仮に自己を実現しようとしても、彼は少なくとも、つぎのことを思い知らずにはいないだろう。すなわち、彼が《翻訳する》つもりでいる内面的な《もの》とは、それ自体完全に合成された一冊の辞書にほかならず、その語彙は他の語彙を通して説明するしかない、それも無限にそうするしかないということ。


le texte est un tissu de citations, issues des mille foyers de la culture. Pareil à Bouvard et Pécuchet, ces éternels copistes, à la fois sublimes et comiques, et dont le profond ridicule désigne précisément la vérité de l'écriture, l'écrivain ne peut qu'imiter un geste toujours antérieur, jamais originel ; son seul pouvoir est de mêler les écritures, de les contrarier les unes par les autres, de façon à ne jamais prendre appui sur l'une d'elles ; voudrait-il s'exprimer, du moins devrait-il savoir que la « chose » intérieure qu'il a la prétention de « traduire », n'est elle-même qu'un dictionnaire tout composé, dont les mots ne peuvent s'expliquer qu'à travers d'autres mots, et ceci indéfiniment (ロラン・バルト『作家の死』1967年) 


◼️声の粒[le grain de la voix]

テクストの快楽の美学を想像することが可能なら、その中に声を挙げるエクリチュールも加えるべきであろう。この声のエクリチュール[écriture vocale](パロールとは全然違う)は実践できない。しかし、アルトーが勧め、ソレルスが望んでいるのは多分これなのだ。あたかも実際に存在するかのように、それについて述べてみよう。

古代弁論術には、古典注釈者たちによって忘れられ、抹殺された一部門があった。すなわち、言述の肉体的外化を可能にするような手法の総体であるVactio〔行為〕だ。演説者=役者が彼の怒り、同情等を《表現》するのだから、表現の舞台が問題だったのだ。


しかし、声を挙げるエクリチュールは表現的ではない。表現はフェノ=テクストに、コミュニケーションの正規のコードに任せてある。こちらはジェノ=テクストに、意味形成性(シニフィアンス)に属している。それは、劇的な強弱、意地悪そうな抑揚、同情のこもった口調によってもたらせるのではなく、声の粒[le grain de la voix]によってもたらされるのである。声の粒とは音色と言語活動のエロティックな混合物[un mixte érotique de timbre et de langage]あり、従って、それもまた朗詠法と同様、芸術の素材になり得る。自分の肉体を操る技術だ[l'art de conduire son corps](だから、極東の芝居ではこれが重視される)。

言語〔ラング〕の音を考慮に入れれば、声を挙げるエクリチュールは音韻論的ではなく、音声学的である。その目的はメッセージの明晰さ、感動の舞台ではない。それが求めているもの(享楽を予想して)は欲動的な偶発事である[ce qu'elle cherche (dans une perspective de jouissance), ce sont les incidents pulsionnels]。それは、肌で覆われた言語活動であり、喉の粒、子音の艶、母音の官能等、肉体の奥に発する立体音響のすべてが聞えるテクストである。肉体の分節、舌〔ラング〕の分節であって、意味の分節、言語活動の分節ではない[c'est le langage tapissé de peau, un texte où l'on puisse entendre le grain du gosier, la patine des consonnes, la volupté des voyelles, toute une stéréophonie de la chair profonde : l'articulation du corps, de la langue, non celle du sens, du langage. ]


ある種のメロディー芸術がこの声のエクリチュールの概念を与えてくれるかもしれない。しかし、メロディーが死んでしまったので、今日では、これが最も容易に見出せるのは、多分、映画だろう。


実際、映画が非常に近くからパロールの音(これが、結局、エクリチュールの《粒》の一般化された定義だ)を捉え、息、声のかすれ、唇の肉、人間の口元の存在のすべてを、それの物質性、官能性のままに聞かせてくれればいい(声やエクリチュールが、動物の鼻面のように、みずみずしく、しなやかで、滑らかで、こまかな粒々で、かすかに震えていればいい)。そうすれば、記号内容をはるか彼方に追放し、いわば、役者の無名の肉体を私の耳に投げ込むことに成功するだろう。

あ、こいつ、粒々しているぞ。しゅうしゅういっている。くすぐっている。こすっている。傷つけている。つまり、享楽しているのだ[ça granule, ça grésille, ça caresse, ça rape, ça coupe : ça jouit.] (ロラン・バルト『快楽のテキスト』1973年)



これは1960年代の「構造主義のバルト」から1970年代の「身体のバルト」へのある意味で「転向」の顕れのひとつ。



この「声の粒」をめぐってバルトが言っているのは、次のラカンと相同的。


詩は身体の共鳴が表現される[la poésie, la résonance du corps] s'exprime(Lacan, S24, 19 Avril 1977)

詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である[la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou.]  (Lacan, S24, 17 Mai 1977)


穴の効果とは、身体の効果=享楽の効果のこと。

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)


ーー《ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる[Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance]》(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)



ま、でもこう言ったことは、ニーチェにあるんだな、



◼️自分は全的に肉体

「わたしは肉体であり魂である」ーーそう幼子は言う[»Leib bin ich und Seele« – so redet das Kind.]。なぜ、人々も幼児と同様にそう言っていけないだろう。


さらに、目ざめた者、洞察した者は言う。

自分は全的に肉体であって、他の何物でもない。そして魂とは、肉体に属するあるものを言い表わすことばにすぎないのだ、と[Leib bin ich ganz und gar, und nichts außerdem; Seele ist nur ein Wort für ein Etwas am Leibe.]


肉体はひとつの大きい理性である[Der Leib ist eine große Vernunft]。一つの意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である。

わたしの兄弟よ、君が「精神」と名づけている君の小さい理性も、君の肉体の道具なのだ。君の大きい理性の小さい道具であり、玩具である[Werkzeug deines Leibes ist auch deine kleine Vernunft, mein Bruder, die du »Geist« nennst, ein kleines Werk- und Spielzeug deiner großen Vernunft.]

君はおのれを「我」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体と、その肉体のもつ大いなる理性なのだ。それ「我」を唱えはしない。「我」を行なうのである。[»Ich« sagst du und bist stolz auf dies Wort. Aber das Größere ist, woran du nicht glauben willst – dein Leib und seine große Vernunft: die sagt nicht Ich, aber tut Ich.]


感覚と認識、それは、けっしてそれ自体が目的とならない。だが、感覚と精神は、自分たちがいっさいのことの目的だと、君を説得しようとする。それほどにこの両者、感覚と精神は虚栄心と思い上がったうぬぼれに充ちている[Was der Sinn fühlt, was der Geist erkennt, das hat niemals in sich sein Ende. Aber Sinn und Geist möchten dich überreden, sie seien aller Dinge Ende: so eitel sind sie.]

だが、感覚と精神は、道具であり、玩具なのだ。それらの背後になお「本来のおのれ」がある。この「本然のおのれ」は、感覚の目をもってもたずねる、精神の耳をもっても聞くのである[Werk- und Spielzeuge sind Sinn und Geist: hinter ihnen liegt noch das Selbst. Das Selbst sucht auch mit den Augen der Sinne, es horcht auch mit den Ohren des Geistes.]


こうして、この「本来のおのれ」は常に聞き、かつ、たずねている。それは比較し、制圧し、占領し、破壊する。それは支配する、そして「我」の支配者でもある[Immer horcht das Selbst und sucht: es vergleicht, bezwingt, erobert, zerstört. Es herrscht und ist auch des Ichs Beherrscher.]

わたしの兄弟よ、君の思想と感受の背後に、一個の強力な支配者、知られない賢者がいるのだ、それが「本来のおのれ」である。 君の肉体のなかに、 かれが生んでいる。君の肉体がかれである[Hinter deinen Gedanken und Gefühlen, mein Bruder, steht ein mächtiger Gebieter, ein unbekannter Weiser – der heißt Selbst. In deinem Leibe wohnt er, dein Leib ist er.](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」Von den Verächtern des Leibes 1883年)



アルトーだってこう言っている。


おそらく彼(ゴッホ)以前においては、不幸なニーチェだけが魂を脱がせ、肉体と魂を解放し、精神のごまかしの彼岸にある人間の肉体をむき出しにするこの眼差しを持っていた。

seul peut-être avant lui  (Van Gogh) le malheureux Nietzsche eut ce regard à déshabiller l’âme, à délivrer le corps et l’âme, à mettre à nu le corps de l’homme, hors des subterfuges de l’esprit. (アルトー『ヴァン・ゴッホ―社会が自殺させた者』ANTONIN ARTAUD, VAN GOGH, LE SUICIDÉ DE LA SOCIÉTÉ )



「自分の言葉」とは精神なるごまかしの言葉だよ、肝腎なのは「肉体の言葉」だ、もっとも肉体には多様な意味があるとはいえ。



ここでは「引用の織物」と「肉体の言葉」をあたかも結びつけるような中井久夫の記述を掲げておこう。



「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(ハーバート・リード卿が「ゲシュタルト・フリー」といったもの)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。


その獲得のためには、人は多くの人と語り、無数の著作を読まなければならない。語り読むだけでなくて、それが文字通り「受肉」するに任せなければならない。そのためには、暗誦もあり、文体模写もある。プルーストのようにバスティーシュから出発した作家もある。


もちろん、すぐれた作家への傾倒が欠かせない。ほとんどすべての作家の出発期にあって、これらの「受肉行為」が実証されるのは理由のないことでは決してない。おそらく、出発期の創作家が目利きの人によって将来を予言されるのは、この「受肉力」の秤量によってである。


傾倒は、決して、その思想ゆえでなく「言語の肉体」獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだか作家の「取り巻き」に終わるであろう。作家が生きていようと、死者であろうと、変わりはない。実際、思春期の者を既存作家への傾倒に向かわせるものは決して思想の冷静な吟味によってではない。それは、意識としてはその作家のしばしば些細な、しかし思春期の者には決定的な一語、一文、要するに文字通り「捉える一句」としてのキャッチフレーズであるが、その底に働いているのは「文体」の親和性、あるいは思春期の者の「文体」への道程の最初の触媒作用である。


いっぽう、言語へのあるタイプの禁欲も必要である。この禁欲が意識的に破壊された時、しばしば「ジャーナリストの文体(むしろ非文体)」が生まれる。ジャーナリストを経験した作家は、大作家といわれる人であっても、ある「無垢性の喪失」が文体を汚しているのはそのためである。(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)



「ジャーナリストの文体」以外にも「学者の文体」ってのがあるな、大半の論文の無味乾燥文体が。あれこそ文体への侮蔑じゃないかね、ニーチェ曰くの「肉体の軽侮者」だね。


というわけだが、このあたりは昔は繰り返し引用してたんだが、最近は言ってもムダという徒労感に襲われることが頻りなんだよ、ワカルカイ?


あゝ、また無駄なこと書いちまった・・・