何度か示しているが、ニーチェあるいはフロイトラカンにおいて、人の個性というのは「自己固有の出来事」の所為だよ。 |
人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている[Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.](ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年) |
この自己固有の出来事[sein typisches Erlebniss]をフロイトは自己身体の出来事 [Erlebnisse am eigenen Körper]と言い換えただけだ。 |
トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕 このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ] この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
「自己身体の出来事=トラウマ=固着=不変の個性刻印」であり、これが反復強迫する。この反復強迫が何よりもまず快原理の彼岸にある死の欲動だ、《われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.]》(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年) トラウマといっても喜ばしいトラウマもあるので注意、ーー《PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。》(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収) この不変の個性刻印としてのトラウマの反復強迫の別名は永遠回帰。これが冒頭のニーチェの「常に回帰する自己固有の出来事」だ。 |
同一の出来事の反復[Wiederholung der nämlichen Erlebnisse]の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年) |
ここでは長くなるのでラカンから直接でなく、ジャック=アラン・ミレールから引くが、これはもちろんラカン自身にもある。だが一般にはなかなかそう読み取れないだけだ(日本ラカン村の連中はいまだここに冷感症。世界的にもジジェク程度ではまったくダメ)。 ◼️「享楽=固着=身体の出来事」への常なる回帰 |
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…) on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009) |
享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) |
この常なる回帰が永遠回帰だ。 |
享楽における単独性の永遠回帰の意志[vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009) |
単独性とあるのは単独的な一者のシニフィアン=固着のことであり、これが先のフロイトの不変の個性刻印=自己身体の出来事であり、ニーチェの自己固有の出来事だ。 |
単独的な一者のシニフィアン[singulièrement le signifiant Un]…これが厳密にフロイトが固着と呼んだものである[et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
ここではラカンから二文だけ引用しよう。 |
現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる[le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »] (Lacan, S16, 05 Mars 1969 ) |
私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている[Je considère que (…) le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme] (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
トラウマは先に見たように自己身体の出来事=固着であり、つまり人はみな固着された点に常に回帰するということ。 |
フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える。ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
一者のシニフィアン(ひとつきりの表象)といっても固着点は種々ある、ーー《(発達段階の)展開の長い道のりにおけるどの段階も固着点となりうる[Jeder Schritt auf diesem langen Entwicklungswege kann zur Fixierungsstelle]》(フロイト『性理論三篇』1905年) どの固着点に回帰するかは人それぞれだが、この回帰はみなやってるんだよ、ほとんどの場合、自ら知らないままで。これが人の真の個性だ。場合によっては、この永遠回帰は他人のほうがよく見える。 この固着が欲動の対象だ。 |
欲動の対象は、欲動がその目標を達成できるもの、またそれを通して達成することができるものである。〔・・・〕特に密接に「対象への欲動の拘束」がある場合、それを固着と呼ぶ。この固着はしばしば欲動発達の非常に早い時期に起こり、分離されることに激しく抵抗して、欲動の可動性に終止符を打つ。 Das Objekt des Triebes ist dasjenige, an welchem oder durch welches der Trieb sein Ziel erreichen kann. [...] Eine besonders innige Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung desselben hervorgehoben. Sie vollzieht sich oft in sehr frühen Perioden der Triebentwicklung und macht der Beweglichkeit des Triebes ein Ende, indem sie der Lösung intensiv widerstrebt. (フロイト「欲動とその運命』1915年) |
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発育の過程で、いくつかの固着が置き残されることがあり、その一つ一つが連続して、押しやられていたリビドーの侵入を許すことがあるーーおそらく、後に獲得した固着から始まり、病気の展開とともに、出発点に近いところにある原初の固着へと続いていく。Es können ja in der Entwicklung mehrere Fixierungen zurückgelassen worden sein und der Reihe nach den Durchbruch der abgedrängten Libido gestatten, etwa die später erworbene zuerst und im weiteren Verlaufe der Krankheit dann die ursprüngliche, dem Ausgangspunkt näher liegende.(フロイト『症例シュレーバー』第3章、1911年) |
原初の固着とはこれはフロイトにとって人はみな同じだが(出産外傷=原固着=原トラウマ[参照])、ここまで病気が展開するか否かは人による。
この原固着[Urfixierung]=原トラウマ[Urtrauma]まで展開してしまったら、実際の死へ向かう自己破壊欲動となりうる。