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2023年4月23日日曜日

あのとき、あなたは、いったい何にじっと視線を向けておられたのですか

 この蓮實重彦の大江健三郎追悼文は、少なくとも私にとって何ものかがドッと遠くからやってくる文章だ。今はその「何ものか」を問わずに引用に終始する。


【追悼 大江健三郎】蓮實重彥「ある寒い季節に、あなたは戸外で遥か遠くの何かをじっと見すえておられた」

文學界 2023年4月18日 

 一つの時代が終わった、とつくづく思わずにはいられない。子供心にも戦前のこの国を多少とも知っており、「戦後は終った」といわれた1960年代にあなたがその才能を遺憾なく発揮された途方もない世代の終焉である。その時代をともに生きていられたことを、この上なく幸運なことだったといまは自分にいい聞かせることしかできない。わたくしたちは、中国大陸への理不尽な軍事侵攻が活況を呈しはじめたころ、そんな事態はまったくあずかり知らぬまま、侵攻しつつあるこのちっぽけな島国に、みずから責任はとりがたいかたちで生をうけた。早生まれのあなたとわたくしとは、年齢では一歳違う。学年で言うと二年の差があるが、ほぼ同時代人といってよかろうかと思う。

 とはいえ、あなたが四国の鬱蒼とした森に囲まれた山岳地帯で過ごされたほぼ同時の幼少年期の体験のあれこれは、あなたの作品をいくら仔細に読んでみても、東京生まれのわたくしには、まるで異国のできごとであるかのように、鮮明なイメージにおさまることのないもどかしさをそのつど憶えずにはいられなかった。何が書かれているかは、わかるといえばわかる。だが、なぜそのことがそのように書かれねばならぬのかはにわかに想像しがたい。その想像しがたいことがらをいかに想像するかという厄介かつ至難な体験へと、あなたはわたくしをそのつど導き入れて途方に暮れさせた。だから、あなたが何を考えておられるのかではなく、どんな言葉――数字を含めた文字記号――を具体的にどのように書き綴っておられるかという一点に絞って、あなたをめぐる一冊の書物を書いてしまった。勿論、その本へのあなたの反応を知ることもなかったし、また、あえて知りたいとも思わなかった。もっぱら、自分自身の想像力の限界を究めるために書いたものだったからである。

 あなたとわたくしとをかろうじて結びつけているものがあるとするなら、ほぼ同じ時期に、東京のまったく同じ大学のまったく同じ学科に籍を置いていたという一点につきている。しかし、すでに芥川賞を受賞されて有名作家となっておられたあなたが、受講のために教室――渡邊一夫教授の十六世紀文学の講義にさえ――に姿を見せられることはなかった。ただ、一度だけ、たったの一度、法文系の教室群のある建物と法学部の研究室棟とを隔てている人通りもまばらなさして広くはない銀杏並木に、一人ぽつねんと立っておられる黒縁の眼鏡姿のあなたをお見かけしたことがある。


 ああ、あんなところにあの人が立っている。いつもは本郷キャンパスに姿を見せられることのないあなたが、いきなりその曖昧な周縁地帯に姿を見せ、しかも何かにひたすら視線を向けたまま、じっと立っておられる。不意を衝かれて思わず足を止めそうになったが、あなたは、こちらの視線さえ意識される風情もみせぬままその場に立ちつくし、何やら遠方にじっと視線を向けておられる。方向としては、図書館の建物あたりに目を向けておられるように思えたが、この人は、いったい何を見ているのか。そのことも確かめえぬまま、いったん立ち止まりかけたわたくしは、あたかも何も見はしなかったかのように、正門の方向へと歩み去った。


 その一瞬の偶然の出会い――あなたはこちらの存在を意識すらしておられなかったから、とても出会いとは呼べぬはずだが――のことを、これまで誰にも口にしたことがなかったという現実にいま改めて驚きながら、その瞬間のあなたが何をじっと見ておられたのかがいまなお不思議に思えてならない。たぶん、季節は秋から冬にかけての寒い季節で、あなたは厚手のオーヴァーをまとっておられたように思う。わたくしどもの研究室とはおよそ無縁の正門脇の細い並木にじっと立ち尽くされたまま、あなたの瞳はいったい何を視界におさめておられたのか。それもまた、想像しがたいことをいかに想像するかという難問に直面せよという、あなたの仕掛けられた罠のようなものだったのか。そうとは思えない。あなたは、思いきり若くて優れた作家の一人として、他人には察しがたい何かを本気で、しかも身動き一つせずに凝視しておられただけだったのだから。すでに半世紀以上も昔のこのほんの一瞬のイメージの衝撃を、わたくしは、なぜ、これまで誰にもいわずにきたのか。というより、六十年の余も遥か昔のこの一瞬のできごとが消えさりがたいイメージとしてしかと記憶されているのは、いったいなぜなのか。


 その後、わたくしは、生前のあなたと三度ほどお目にかかったことがあるが、いずれも公式の席上のことで、親しく個人的に言葉を交わしあう機会など一度としてなかった。最初にお目にかかったのは、1989年の某新聞社主催の「ノーベル賞受賞者日本フォーラム」にクロード・シモンが招待され、その通訳兼プレゼンターを務めたときで、日本側からあなたがこれに参加されたのだが、そのときに読みあげたお二人の文学的な紹介の手書きの原稿をつい最近見つけたものの、いまは行方がわからなくなっている。二度目は、1994年の駒場での地域文化研究のテーマ講義に非常勤講師として出講されたあなたが、責任者の工藤庸子に導かれて駒場の応接室を訪れて下さったときのことだが、何を話したかはまったく記憶にない。そして最後にお目にかかったのは、2005年の東大の卒業式に祝辞を述べに来られたときだったような漠たる記憶があるが、ことによると、2007年11月10日の東京大学創立130周年を祝う講演会に、江崎玲於奈、小柴昌俊のお二人とともに参加されたときだったかも知れない。それが終わって控え室に戻られてから、明日は大阪に行き、裁判に出なければならないと誇らしげにいわれたことをしかと記憶している。いうまでもなく、『沖縄ノート』の記述に無謀な難癖をつけた連中が訴訟を起こした事件である。勿論、事態はあなた側の勝訴となったものだが、この方はいまなお闘っておられるのだと深い感動を覚えた。


 しかし、わたくしとしては、学生時代に、人通りの少ない銀杏並木で何かをじっと凝視しておられたときのあなたの孤独きわまりないイメージから逃れることができない。これこそ、作家が引きうける孤独さというものではなかったかとは思う。しかし、あのとき、あなたは、いったい何にじっと視線を向けておられたのですか、大江健三郎さん。

(初出 「文學界」2023年5月号)








――……この一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉に私が出会ったのはね、ハイスクールの前でバスを降りて、大きい舗道を渡って山側へ行く、その信号を待つ間で…… 向こう側のバス・ストップの脇にシュガー・メイプルの大きい木が一本あったんだよ。その時、バークレイはいろんな種類のメイプルが紅葉してくる季節でさ。シュガー・メイプルの木には、紅葉時期のちがう三種類ほどの葉が混在するものなんだ。真紅といいたいほどの赤いのと、黄色のと、そしてまだ明るい緑の葉と…… それらが混り合って、海から吹きあげて来る風にヒラヒラしているのを私は見ていた。そして信号は青になったのに、高校生の私が、はっきり言葉にして、それも日本語で、こう自分にいったんだよ。もう一度、赤から青になるまで待とう、その一瞬よりはいくらか長く続く間、このシュガー・メイプルの茂りを見ていることが大切だと。生まれて初めて感じるような、深ぶかとした気持で、全身に決意をみなぎらせるようにしてそう思ったんだ……


それからは、自分を訓練するようにして、人生のある時々にさ、その一瞬よりはいくらか長く続く間をね、じっくりあじわうようにしてきたと思う。それでも人生を誤まつことはあったけれど、それはまた別の問題でね。このように自分を訓練していると、たびたびではないけれどもね、この一瞬よりはいくらか長く続く間にさ、自分が永遠に近く生きるとして、それをつうじて感じえるだけのことは受けとめた、と思うことがあった。カジね、そしてそれはただそう思う、というだけのことじゃないと私は信じる。


それはこういうことが考えられるからだよ。もう一度、ほとんど永遠に近いくらい永く生きた人間を想像してみよう。それこそ大変な老人になって、皺だらけで縮こまっているだろうけれどもさ。その老人が、とうとう永い生涯を終えることになるんだ。そしてこう回想する。自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮ぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか? そうすればね、カジ、きみがたとえ十四年間しか生きないとしても、そのような人生と、永遠マイナスn年の人生とは、本質的には違わないのじゃないだろうか? 

  

――僕としてもね、永遠マイナスn年とまではいいませんよ。しかし、やはり八十年間生きる方が、十四年よりは望ましいと思いますねえ、とカジは伸びのびといった。


――私もカジがそれだけ生きることを望むよ、というギー兄さんの方では、苦痛そのもののような遺憾の情を表していたが。……しかしそうゆかないとすれば、もし十四年間といくらかしか生きられないとすれば、カジね、私としてはきみにこういうことをすすめたいんだよ。これからはできるだけしばしば、一瞬よりはいくらか長く続く間の眺めに集中するようにつとめてはどうだろうか? 自分が死んでしまった後の、この世界の永遠に近いほどの永さの時、というようなことを思い煩うのはやめにしてさ。(大江健三郎『燃え上がる緑の木 第一部』p148-150)




――私は、総領事の最初の結婚を破棄して、自分と再婚させたわけだけど、それまでの後悔を引っくり返すほどの喜びをあたえたとは思わない、と弓子さんはいって、もう一度嗚咽され、鼻をかんだハンカチをまるめて握った手をまたK伯父さんの手の上に戻された。


――総領事と弓子さんをブリュセルに訪ねて、泊めてもらった時ね。翌朝、食堂に降りて行くと、きみたちは中庭の orme pleureur をじっと眺めていた。そこへ声をかけると、ふたりが共通の夢からさめたようにこちらを振り返ってね。ああいう時、総領事は、隆君の言葉を使えばさ、一瞬よりはいくらか長く続く間、弓子さんと喜び〔ジョイ〕を共有していたんじゃないの? しかも、そういうことは、しばしばあったんじゃないか?


イェーツの、ふたつの極の間の生というのはね、僕の解釈だと、……総領事のそれとはくいちがうかも知れないけれどもさ、なにより両極が共存しているということが大切なんだよ。愛と憎しみという両極であれ、善と悪という両極であれ…… それを時間についていえば、一瞬と永遠とが共存しているということでしょう? ある一瞬、永遠をとらえたという確信が、つまり喜び〔じょい〕なんだね。


じつはいまさっき、総領事の身の周りのものがまとめてあるなかに、イェーツの詩集があって、開いて見たんだけど、第四節はこういうふうなんだよ。《店先で街路を見わたしていた時/突然おれの身体が燃えさかった、/二十分間の余も/おれは感じていたのだ、あまりに倖せが大きいので、/祝福されておりみずから祝福もなしえるほどだと。》五十歳のイェーツの感慨なんだ、総領事が到達した年齢や、僕がいま生きている年齢より若い折の詩人の……


結婚したてのきみたちは、やはりロンドンから、この二十分間の余を現に体験していると、そういっている絵葉書をくれたじゃないか? きみたちは喜び〔ジョイ〕を共有していたぜ、あの時。それは一瞬のうちに永遠へ入り込んでいたことでね、失われようがない。……弓子さんがこれから休暇をとって、メリー・ウィドウの気分で、ロンドンの喫茶店を再訪でもすればさ、も一度その一瞬にめぐりあって永遠に戻ることになるよ!


――それがあったとしてもね、新しい一瞬を、このように死んでしまっている総領事と一緒に経験できるとは思えない……


弓子さんは老成した不機嫌さの躱し方だったが、その底に稚いような素直さの響きもあったからだろう、めずらしくK伯父さんはヘコタレなかった。


――バラバラの個ならば、そう。それにあわせて、全体のなかにふくまれる個ということも考えられるんじゃないの? とくにわれわれが一瞬の永遠を感じとるというような時、それは全体のなかの個としての経験だと思うよ。この場合、全体には死んで行った人の個もふくまれているはずね、実感としても…… それがあるからこそ、自分が祝福されるばかりじゃなく、他人を祝福することもできそうだというんだと思うよ。(大江健三郎『燃え上がる緑の木 第二部』P227-229)



………………



……ギー兄さんから習ったイェーツの詩の最後の二行を原詩のまま頭に浮べ、そこに自分としての訳詩をかさねてみるようでもあったのである。 I am thinking of a child's vow sworn in vain / Never to leave that valley his fathers called their home. 父祖たちが家郷と呼んだ谷間から  離れることはないものとむなしたてた子供の誓いを思っている・・・・


十八歳の終り方に谷間の底の生家の土間で、拒否する座像のような小柄な母親の前に立ちつくし、ただひとつ自由にできる心の動きとして思い浮べたアイルランドの詩人の言葉は、僕のそれからの生について確実な予言となった。 Child's vow sworn in vain......(大江健三郎『懐かしい年への手紙』第1章)


これまで幾たびも話したことだが、魂のことを始めなければならないと、子供の頃から私は考えていた。ハイ・スクールの生徒になると、それにかさねて折りかえし点ということを思うことになった。いったん魂のことを始めてしまえば、生きるための金銭を稼ぐことはできないのだから、その折りかえし点に到るまでに、死ぬまでの生活費を貯えておかなければ…… そのように子供じみたことを、切実に思い続けたものだ。(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部、P156)

……葬儀に帰られたKさんと総領事が、伊東静雄の『鶯』という詩をめぐって話していられた。それを脇で聞いて、私も読んでみる気になったのです。〈(私の魂)といふことは言へない/しかも(私の魂)は記憶する〉


天上であれ、森の高みであれ、人間世界を越えた所から降りてきたものが、私たちの魂を楽器のように鳴らす。私の魂は記憶する。それが魂による創造だ、ということのようでした。いま思えば、夢についてさらにこれは真実ではないでしょうか?


私の魂が本当に独創的なことを創造しうる、というのではない。しかし私たちを越えた高みから夢が舞いおりて、私の魂を楽器のようにかきならす。その歌を私の魂は記憶する。初めそれは明確な意味とともにあるが、しだいに理解したことは稀薄になってゆく。しかしその影響のなかで、この世界に私たちは生きている……  すべて夢の力はこのように働くのではないでしょうか? ……(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第三部、P114)




大江健三郎は魂の還るところとして故郷の村の森をしばしば書いたきた作家である。


この村に生まれた者は、死ねば魂になって谷間からでも「在」からでもグルグル旋回して登って、それから森の高みに定められた自分の樹木の根方におちついてすごすといわれておりましょう? そもそもが森の高みにおった魂が、ムササビのように滑空して、赤んぼうの身体に入ったともいいましょうが? (大江健三郎『M/T と森のフシギの物語』1986年)

戦争末期の僕のジレンマのもうひとつは、南方でーーしかもレイテ島で、と具体的に土地の名が思い浮かぶこともあったーー自分が戦死しての、魂の帰り道という問題であった。谷間の人間であれ「在」の人間であれ、肉体が死ねば、魂は躰をぬけて空中に浮び上り、旋回して、それも螺旋状にしだいに高みに昇って、それから森の、以前から自分のための木ときまっている樹木の根方に着地して、ずっととどまることになる。お伽話のようにそう聞いて育ったが、船で送られトラックで移動して、集団で行軍したあげくジャングルで戦死してしまえば、ひとりぽっちの魂になって、さて遠い道のりをこの日本の四国の森の奥の谷間まで、どう戻りつくことができるのか。〔・・・〕


――本当に魂が森に昇るのなら、谷間からでも「在」からでも、東京からでも長崎からでも、おなじじゃないのかな? 鮭は孵化した川に戻ってくるというが、魂には魂の本能のようなものがあるのやないか? 南方で死んだ人間の躰から離れた魂は、サーッと東に行ったり、まさサーッと西に行ったりして、迷うことがあるにしても、いつかは森に帰って来ているやろう。もう死んで魂になっておるのやから、永い年月かあkっても同じやが! 谷間や「在」から森に昇るより、魂になって海の上を飛行して帰って来る道すじの方が面白いと思うよ。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』1987年)



とはいえ、2001年には「母のない今私にはふるさとはありません」と語っている。


「ふるさとにもどりますか」という問いに「母のない今私にはふるさとはありません」と(大江健三郎、すばる編集部、『大江健三郎再発見』、2001年、pdf





…………



なお、1980年前後の蓮實には大江批判がある、➡︎ 蓮實重彦の「大江健三郎殺し」



そして大江はーー短編小説のなかでだがーー次のような形で蓮實に触れている。


たとえばフランス文学者で、日本文学への批評のみならず映画批評においても新しい権威のH氏や、経済学用語を文芸批評にとりいれて根強い信奉者を持つK氏について、青年は激越といっていいほどの支持をあらわした。 大学教師でもある、これら少壮批評家たちの学生であったのかも知れぬと感じられたのだが、専門的に分化した知識の準備なしには解読できぬと思われる、H氏やK氏の仕事について、YESかNOか式の問いかけに、よく答えられぬのに苛だちをあらわして、青年はこういうことをいう仕儀にも到った。


HやKのいう、あんたのイカガワシサのね、表層にあるものと、深層にあるものを、あんた自身感じとっているわけで……やはり自己規制はするでしょう? しかし新しい仕事を読むと、あんたのイカガワシサが衰えていないのをね、HやKは見るわけね。もっともそんなこと百も承知で、あんたは仕事しているわけで......


青年のとくに中止法とでもいう話しぶりが、その話柄についてのひとつの区切りは示す。 しかしそれはかれの饒舌の休止を意味するのではなかった。つづいて青年は、文化人類学者さんの新著について――まだ手に入れてはいないが、といいながらーー好意的な新聞書評への、かれとしての批判へと行く。その間、僕は舌に甘く重いアンカー・スチームを飲みながら、こちらのもの思いに入りこむわけなのだ。 話し相手は、僕が相槌をうつかぎり話しつづけるのだし、重要な問題点での、YESかNOかに僕がよく考えられぬことを、すでに見ぬいているようでもあったから。


イカガワシサときみがいい、H氏やK氏の僕への言葉だともいうんだが、きみ自身として当の言葉をよく考えてのことだろうか? そのように僕は内心の思いを展開させていたのだ。鋏でよく髯を刈りこんでいるが、それゆえにかえって薄汚れた風情の、若い同胞よ。初対面の会話できみが軽く使う、その言葉を、僕は相当な心づもりに立たずには使ったことがない。いったいきみはどういう対決の理由があって、この旅先まで僕を訪ねて来ているのか? それをまず聞くことができれば、話は早手まわしとなるはずだが。 きみがイカガワシサという言葉について、それを発したとたんに始る厄介な闘いへの、心準備なしにしゃべりたてる人物なら、僕として真面目に答える必要もないわけだ・・・・


若者のよどみない談論に耳をかたむけつつ、こうしたことを頭のなかの言葉としていたが、饒舌に水をさす具合に口に出すことはなかった。(大江健三郎「見せるだけの拷問」1984年)




続き➡︎「意識化することを望まないできた五、六歳の頃の記憶(大江健三郎)」