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2023年4月23日日曜日

意識化することを望まないできた五、六歳の頃の記憶(大江健三郎)


 前回の「あのとき、あなたは、いったい何にじっと視線を向けておられたのですか、大江健三郎さん。」(蓮實重彦)の続き。

1991年に書かれた短編「「涙を流す人」の楡」はドッと遠くからやってきた大江の文章のひとつであり、ひょとして後期大江の始まりのひとつかもしれないと思う。


ーー朝食の間、沈みこんでいるものだから、気がかりだったわ、と妻が声をかけてきたのである。中庭の奥の大きい木を見ないように、身体を斜めにしているのも不自然だったし…… あなたが木が好きだということで、奥様はあの不思議な木を特別な御馳走のおつもりだったはずなのに。


ーーそこで話題が樹木の方向に進むようにとマロニエの花へ誘導してくれたのか…… しかし、沈みがちだったのはNさんじゃなかったかい? それでもホストとしてしっかりつきあってくれていて…… むしろそれをむりに笑わせるのもと、冗談をいわないようにしていただけだよ…… 中庭の大きい木はチラリと見たように思うけれど、つまりはNさんの鬱屈と思いこんだものに気をとられていたから。


ーーあなたが、あれだけめずらしい樹木をチラリとなり見て、そのままにしてしまうというのは、自然じゃないでしょう?  いつもなら、すぐさま中庭へ廻らせていただいて、幹にさわってみるなりしたはずよ。そうやってあなたが楽しむのを、大使たちは期待されていたと思うわ。


ーーそういわれればね。昔きみには話したけれども、ある特別なかたちの大きい樹木で、それを見たり思い出したりすると、近年は鬱屈というほどでもなくなったけれど、気の滅入るやつがあるわけだ……


ーーあれじゃないかと、私も感じていたわ。 N大使がやはり沈んでいられたとしたら、あなたがあの木をチラリとなり見て、意識しないで影響されたのが、Nさんに感染したのかも知れないわよ。


ーー敏感な人だからね……実社会での仕事をかさねてきて、かつ現役の盛りの人なのにね。精神的にタフなはずだし、ラオスでは青年海外協力隊員に空手を習ったというから、肉体的にもさ……  Nさんがこちらの鬱屈に気をつかってくださっていたのなら、僕とあのかたちの木の因縁を話さなければならないかなあ······  さて、そうするとなると、中庭のあの木から逃げ廻ってだけいるわけにはゆかない。 正面からそれをちゃんと見なければならない。


僕は空元気をふるいたてて寝室を大股に突っきると、藍色の厚手のカーテンを閉ざしたままの中庭側の窓に歩みよった。黒く太い梁が剥き出しの高い天井に近いところから垂れるカーテンを開くと、すぐ眼の前にあるのは窓半分をふさぐ巨大な栗の木の茂りだ。 夜の間、強い音をたて繰りかえされる実の落下に、妻がカーテンの合わせ目から確認していたところ。その向こう、公邸の本棟と離れを正三角形に結ぶもうひとつの頂点に、あらためて見ればもう自分がそれを眼にしていたことを認めるほかはない、赤茶けはじめているこまかな葉で覆われた大きい樹木が、 芝生のきわまでその長い枝をしだれさせていた。


僕はギクリとし、かつその樹木全体の眺めに深い懐かしさの思いを呼びさまされた。 この木と、自分の内側に永年茂っているあの木とは、おそらくともにニレの仲間だろう。しかし両者はそのなかで、お互いにまったく遠いはず。しかもこの木は確かに記憶のなかのあの木とつながるパイプを一挙にとおして、こちらを宙ぶらりんの思いにする……いま眼の前にそそり立っている木は、ひとつの根株から二本に幹のわかれたものだが、それが僕の記憶の光景の木に結ぶ理由はあきらかだ。僕のなかの木は落雷によって梢を折り曲げられたハルニレ。こちらの木はその種類としての属性で、梢が両方とも手頸を強く折り曲げたかたちをし、そこからすべての枝が根方に向けて指のようにたれさがっている。こまかな葉の茂りがそれをつつむ様は、踝までとどく雨合羽を着た巨人ふたりが向こうむきに背を並べているかのようだ。


朝食を始めた頃にはただ真青だった空に急速に雲がひろがって、しだれにしだれた枝のこまかな葉の茂りが凶々しいほどに翳ってゆく。 僕はつい溜め息をついて、整えられたベッドのカヴァーの上へ横になり、これからすくなくとも一日二日は沈んだ気分においてつきまとうはずの、幼年時の記憶に面とむかった。海外にいることもあり、いくらかは進んでこちらからそれをかきよせるようだったと思う。そのうち僕は当の記憶の光景が、今朝早くからの気分を裏側でコントロールしていたことを認めるほかなかったのである。 昨夜、月明りのなかの広大な前庭を大使の車で廻り込んだ時か、今朝の起きがけの散歩で、僕はねじ曲げられた梢をチラリと見かけ、すぐ眼をそむけて見なかったふりをし、意識の表面ではそれに成功していたのだったろう......


そのうち僕は、さきほど妻にはいわば思いつきでそういったにすぎなかったけれども、記憶から抹消できぬあの木の光景をこの年になってあらためて誰かに話すとすれば、確かにN大使こそ最良の聴き手だという考えに辿りついたのだ。小説家として永年暮らし、四国の森のなかの谷間についてもおよそ数多いページを書いてきたのに、あの記憶の光景については書くことをしないできた。その理由として自分を説得していたのは、いつまでも当の光景にあいまいなところがついて廻っているということ。それでいながらあえて小説に書き、想像力的な整合性をあたえてしまうと、今度はそれが実生活にフィードバックして、とくに父親の晩年の仕業の思い出に黒ぐろとした影を投げかけるのではないか?   つまり僕はいつまでも幼児的なものの残る性格として、この記憶の光景を直視することから逃れていたことになる……


それがいまブリュッセル郊外のあの木を思い出させる巨木のある屋敷で、文学に深い理解を持ちつつ外部でしたたかな経験を積んできたN大使に話すことで、なにかこれまでにない把え方が自分に可能であるような気がする……


さて実際に話しはじめてみると、幼年時のひとつの光景の記憶という主題は、やはり夢のように淡い不定形なものなのだった。 大使がその公的生活にはまぎれこむことがないにちがいない、こうした小説家の個人的な話に寛大な、またとない聴き手であったことをしみじみ思う。 沈黙してこちらを穏やかに見まもっている沈着かつ機敏なかれの眼を、すでに現世ではもう再び見ることはできぬこととなったいま、さらに色濃く....  そしてあの最後の話合いはなにか自分らを越えたもののはからいではなかったかとすら疑うのだ。


われわれの坐っている居間の大きいガラス仕切りの向こうには、全体に総毛立つふうな orme-pleureur が、斜め下方の谷あいから夕陽を受けて濃いワインカラーに燃えあがりもした。あの梢を押しひしいでいた見えない力と、つながっているところのものが、どこかでとりはからってくれていたのではなかったかと......


――確か五、六歳の頃の記憶なんですが、 背景の樹木をふくめて画像としてくっきり頭にきざまれているのに、その光景を構成している人びとがすべてあいまいな、そういう記憶にね、永年とりつかれているんです。さらにこの光景につづいての出来事に、ぼんやりした罪障感があるんですね、自分自身と父親とに関わって…… しかし自分や父親が実際になにをしたか、ということは霧に包まれています。そういうわけで小説に書くこともできない記憶なんです。 ところが、きっかけがあってその記憶が表層の方へ浮びあがってくると、いつでも気持が沈んでしまう。それが一、二日は続く。とくに学生の頃、罪障感として意識するようになって、ずっとそうなんです。


その話を聞いてもらいたい。そう思いたって考えてみると、これは文章に書かなかったばかりか、結婚する直前、妻に話したのがひとにうちあけた唯一の経験だったと、奇妙な言い方ですが気がついたわけなんです。それだけに妻に話した状況を思い出すのは容易で、その時も桂離宮のちかくの森で、記憶の光景のなかに立っている木とおなじように思える巨木を見て、そしてドンドン記憶のなかに入りこんで僕が鬱屈したのがきっかけでした。妻との結婚式の打合せに京都へ行っていた際で、僕は端的に傷ついている、まだ少女めいたところもあった妻を納得させねばならなくなったのでした。


中庭に見えるあの樹木は、桂離宮近くの森の老木よりもさらに本質的に、僕の記憶のなかの木に似ていると思います。 そこで今朝から僕におなじ鬱屈が起っていたのでしょう。 奥様から樹名を教えていただいたところですけれど、ヨーロッパの、それもこの地方に特別な樹木のような気がします。 大きい図鑑でも、日本の出版のものでは見たことがありませんから。つまり、おなじ種類が四国の森の奥にあるはずはない。しかも自分の記憶のなかの木に確実につながっているんですね。墓地の奥に僕の記憶の光景の樹木は立っている。種としていえばハルニレ。ただ、落雷にやられて梢がねじ曲げられ、枝という枝が下向きにしだれている。あの中庭の樹木のように……


五、六歳の僕は、ひとりで森のなかを歩き廻っては、夕暮になってやっと谷間に降りて来るという、いま思えば風変りな習性の子供でした。 一度は森のなかで発熱して三日間も谷間に降りて来られず、とうとう消防団に救助されて、「天狗のカゲマ」という綽名がついた…… そうした日々の暮しのなかで、ある夕暮出くわした光景が記憶にしみついているんです。 あのorme-pleureur のように、全体にしだれにしだれた大きい木が森のきわに立っている。すでに森をうめつくしている赤っぽい暗がりが、わずかに森からへだたって一本だけぬきんでた高さの木の周りに押しよせてきてもいる。その根方に三、四人の大人たちがじっと立っているんです。そしてやはり大人の両腕で囲いこめるほどの広さの真暗な穴が、かれらの足もとに掘られている。


大人たちみなが不思議な様子をしているので、僕はその全体が子供らしく誇張された夢に発するかとも疑うことがあるんですが、 大人たちの真んなかには白い布をかぶった若い女の人がいて、やはり白い縦長の包みを赤んぼうを抱く仕方で胸にかかえています。 この女の人は頭の白い布のほかは普通のワンピースで、そのころ村で簡単服といった作り方のものだと思いますね。ところがその脇に立った、これまで自分の出会ったことのない、絵本で見る曲芸師のような恰好の、黒い鍔なし帽子をかぶった男の人が、黒い本を持っている。そしてやはりサーカスにでもいるようなモンペに布靴の老人と、鶴嘴を持った、上半身白いシャツに土方のズボン、ゲートルの若い男がいる。ずっと鳥の歌のように聞こえる言葉で鍔なし帽子の男がしゃべっていたのが、灌木に覆われてトンネルをなす山道から子供が出て来たもので口をつぐんでこちらを見る。女の人のほかみんながそれにならう……  こうした光景がわずかに動きの変化する絵のようにして、記憶にきざまれているわけです。


僕は村の子供で、その他所者だか天狗だか、ともかくも見知らぬ人たちに挨拶の声をかける才覚もなくて、そのまま墓地へ向かう古い敷石道へ走りぬけ、菩提寺の境内へ降りる石段に到ったはず。そして谷間を川ぞいにつらぬく村道に出て、家に帰ったのだろうと思います。このコースが森に昇っては降りて来る子供たちのルーティンだったから、そうしたにちがいないけれども、さきの光景だけを覚えていて、それよりほかの直接の記憶はないんです。


したがって、もうひとつの僕にしみついている固定観念のようなものは、実際的なイメージとして視覚にあるというのじゃありません。むしろ夢のなかの雰囲気というようなレヴェルのものです。夜ふけに父親が、家業の内閣印刷局におさめる三椏の工場にいた若い衆たちと、ものものしいほどの身支度をして、鶴嘴やスコップを持って森に昇って行く……


それからずっと時がたって、僕はこのふたつの記憶を最初のくっきりした光景のそれと、あとは自分の頭でなかば作り出したのかも知れない、ただ雰囲気の印象だけ強いものとーーある日ハッと気がつくようにして結び、さきにいった罪障感を抱くようになったわけです。それを具体的にあかしだてる証拠はないのですが、最初の記憶の光景そのもののなかに、当の罪障感はすでにプリントされていたようにも思う。それにおびやかされるうち、第二の記憶の光景を夢に見たのだったかと思うこともあります。


それが夢だとすると、僕はまだ子供のうちから、村の墓地に埋めることを拒まれている家族がおそらく赤んぼうの遺体を墓地のはずれに埋葬したのに、そこを見てしまった僕に報告を受けて、父親が若者たちを指揮して掘り起しに行き森の奥へ捨ててしまったと臆測していたのでしょう。それから三年たって、父親が急死した際、ひそかに僕はあのことのせいだと怯えて、葬儀の後、埋葬に墓地へ向かうことを恐れたのを思い出しますから。あれ以来ひとりで森に入る事もなくなってしまったのです。


N大使は、僕もその葬儀で弔辞のうちにのべたことだが、美しく明敏で母親や教師や友達の誇りだった少年がそのまま大人になった面影の人だった。しかもそれと矛盾せぬ、したたかな洞察力を働かせるタイプ。 僕の話を聞き終った後、ゆっくり反芻するように間をおきつつ、かれはもうすべて見ぬいていたかのようだった。


あなたが五、六歳だったならば、まだ太平洋戦争は始まっていないでしょう。それなら四

国の村にやって来た他所者といっても、疎開者ではない。谷間を囲む森から材木を伐採して運び出すために朝鮮人労務者が連れて来られて、川原に近い所に集落をかまえていたと、あなたはたびたび書いている。あれが事実を反映しているとして、こういうことじゃなかっただろうか?


子供のあなたが見たのは朝鮮人の家族で、若い母親が白い布をかぶっていたとすれば、キリスト教の人たちじゃなかったのか? 神父様も朝鮮人の方をひそかにお迎えしての、埋葬の場面じなかったか?  朝鮮人労務者の仮の集落に墓地はないだろうし、川原の隅などに埋めては大水で流されるかも知れない。森のなかの狭い土地で、どこかしっかりと埋葬のできるところといえば、村の先住者の墓地に自然に近づくのじゃないだろうか?


反対に村の人間の側からいえば、とくに差別的でなくても、他所者の、それも朝鮮人の遺体を先祖伝来の墓地のへりへなりと埋葬されては困るという反応もあったのではないか?  そうしたことを考えあわせれば、あなたが意識化することを望まないできたトラウマのもとはくっきりしてくるのじゃないか......


しかし、困るなあ、あはは! あなたにそんなベソをかいたような顔をされては! ……あのしだれた楡は、家内もいったとおりorme-pleureurで、pleureurというのは、枝がしだれにしだれているということですね、しかし、言葉の表面の意味としては「涙を流す人」の楡であるわけで、あの木の確かにベソをかいているような雰囲気が、あなたのみならずね、われわれみなを影響づけているかも知れないけれど……


この夏の終り、N大使は癌にもとづく肝不全で急逝された。自分の弔辞で、この樹木を思出についてのべたところを引用したい。


《ブリュッセルの朝から東京の夕暮に向けて、かつて聞いたことのない夫人の悲しみの声が大使の死をつたえる国際電話を受けてから、私はこの夏の終り、暗く茂っているはずのorme-pleureurの影に覆われるようにして時を過してきました。


あの秀れた異分野の友人は去った、かれと共にあることでのみ開かれたこの世界の独自の側面は自分から捥ぎとられた。そのことを私は繰りかえし思っています。現実と、あるいはその外部との関わりにおいて、こちらとは比較にならぬ経験をかさねた人物に、しばしば私は自分の自閉的な思い込みを越える展望を開いてもらいました。それが自分にとってかならずしもすべて受け入れやすかったのではない。しかしある時がたつと、私はその展望を介してはじめて可能な、積極的なものをかちえていることにつねに気づいたのです。


そのあれこれを思い出していると、いま自分がいくらかなりとタフな成熟をなしえているとすれば、しばしば対立しながら豊かな談論を楽しむことのできた、大使との交遊の日々にそれがもたらされていることをさとらずにはいられません。


N大使、私はいまもなおあなたがまさにそのようにタフな成熟と純粋さをあわせもつ眼で、微笑しつつ、わずかなイロニーも漂わせて、私を見おろしていられることを感じます。残された生の時、それを感じつづけもすることでしょう。》〔・・・〕


(大江健三郎「「涙を流す人」の楡」初出1991年『僕が本当に若かった頃』所収)



……………………



※参考


なおラカンの現実界(現実界の享楽)は、フロイトの自我あるいは言語に同化不能のトラウマであり、これを固着と呼ぶ。


現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](ラカン、S11、12 Février 1964)

固着は、言説の法に同化不能のものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1  07 Juillet 1954)

フロイトの反復は、言語に同化不能の現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する[La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…)  on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)


フロイトの「抑圧されたものの回帰」ーー実際は原抑圧されたものの回帰ーーは、この「トラウマの回帰」である。フロイトのトラウマの定義は身体の出来事であり、「身体の出来事の回帰」と呼んでもよい[参照]。


したがって、フロイトラカン観点からは「「涙を流す人」の楡」における《あなたが意識化することを望まないできたトラウマ》とは、意識化不能ゆえに何度も回帰するトラウマ的身体の出来事となる。


なお「抑圧」と訳されてきたフロイトの "Verdrängung" は誤訳であり、この語に抑えつけたり圧したりの意味はない。抑圧とは「解離」「防衛」等と訳されるべき語である。