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2023年4月23日日曜日

むしろ一瞬よりはいくらか長く続く間が私のけふの日を歌ふ


中井久夫の「発達的記憶論ーー外傷性記憶の位置づけを考えつつ」初出2002年(『徴候・記憶・外傷』所収)のエピグラフにはこうある。


海の神秘は浜で忘れられ、

深みの暗さは泡の中で忘れられる。

だが、思い出の珊瑚はにわかに紫の火花を放つ。


ーーヨルゴス・セフェリス



大江の「何かにひたすら視線を向けたまま、じっと立っておられる」姿は、このセフィリスの「紫の火花」、プルーストの「過去の復活」にかかわるのではないか、私はそう見なしているのであってーー少なくとも前回「「涙を流す人」の楡」の記述はそうだーーこれを一般化してしまうのは間違っているのかもしれない。



過去の復活[résurrections du passé] は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気を吸うことを強制され [Elles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains]、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所とのあいだで足をすくわれ、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられる。(プルースト「見出された時」)



何はともあれ、 繰り返せば、蓮實による大江追悼文の、とくに次の箇所にひどく打たれたんだ、


 あなたとわたくしとをかろうじて結びつけているものがあるとするなら、ほぼ同じ時期に、東京のまったく同じ大学のまったく同じ学科に籍を置いていたという一点につきている。しかし、すでに芥川賞を受賞されて有名作家となっておられたあなたが、受講のために教室――渡邊一夫教授の十六世紀文学の講義にさえ――に姿を見せられることはなかった。ただ、一度だけ、たったの一度、法文系の教室群のある建物と法学部の研究室棟とを隔てている人通りもまばらなさして広くはない銀杏並木に、一人ぽつねんと立っておられる黒縁の眼鏡姿のあなたをお見かけしたことがある。


 ああ、あんなところにあの人が立っている。いつもは本郷キャンパスに姿を見せられることのないあなたが、いきなりその曖昧な周縁地帯に姿を見せ、しかも何かにひたすら視線を向けたまま、じっと立っておられる。不意を衝かれて思わず足を止めそうになったが、あなたは、こちらの視線さえ意識される風情もみせぬままその場に立ちつくし、何やら遠方にじっと視線を向けておられる。方向としては、図書館の建物あたりに目を向けておられるように思えたが、この人は、いったい何を見ているのか。そのことも確かめえぬまま、いったん立ち止まりかけたわたくしは、あたかも何も見はしなかったかのように、正門の方向へと歩み去った。〔・・・〕

 しかし、わたくしとしては、学生時代に、人通りの少ない銀杏並木で何かをじっと凝視しておられたときのあなたの孤独きわまりないイメージから逃れることができない。これこそ、作家が引きうける孤独さというものではなかったかとは思う。しかし、あのとき、あなたは、いったい何にじっと視線を向けておられたのですか、大江健三郎さん。

【追悼 大江健三郎】蓮實重彥「ある寒い季節に、あなたは戸外で遥か遠くの何かをじっと見すえておられた」文學界 2023年4月18日




「この一瞬よりはいくらか長く続く間」、何ものかにじっと視線を向けていた大江とそれを語る蓮實の語り口に茫然自失したんだ。


――……この一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉に私が出会ったのはね、ハイスクールの前でバスを降りて、大きい舗道を渡って山側へ行く、その信号を待つ間で…… 向こう側のバス・ストップの脇にシュガー・メイプルの大きい木が一本あったんだよ。その時、バークレイはいろんな種類のメイプルが紅葉してくる季節でさ。シュガー・メイプルの木には、紅葉時期のちがう三種類ほどの葉が混在するものなんだ。真紅といいたいほどの赤いのと、黄色のと、そしてまだ明るい緑の葉と…… それらが混り合って、海から吹きあげて来る風にヒラヒラしているのを私は見ていた。そして信号は青になったのに、高校生の私が、はっきり言葉にして、それも日本語で、こう自分にいったんだよ。もう一度、赤から青になるまで待とう、その一瞬よりはいくらか長く続く間、このシュガー・メイプルの茂りを見ていることが大切だと。生まれて初めて感じるような、深ぶかとした気持で、全身に決意をみなぎらせるようにしてそう思ったんだ……。(大江健三郎『燃え上がる緑の木 第一部』)




《一瞬よりはいくらか長く続く間》、ーー私はこの言葉を何度も何度も引用してきた。ときにプルーストのレミニサンスに結びつけ、ときに伊東静雄の《寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ》を想起しつつ。


私にとって、大江健三郎は何よりもまず、《一瞬よりはいくらか長く続く間》の人だ。そして人をみるとき、この人は《一瞬よりはいくらか長く続く間》をどのくらいもっているのか、その瞬間をいかに大切にしているか否かで「ときに」判断してしまう「悪癖」をもっている。


あの瞬間は私がうたふのではない、むしろ一瞬よりはいくらか長く続く間が私のけふの日を歌ふんだ。


私はうたはない

短かかつた耀かしい日のことを

寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ