お前さん、いつまでアンチフェミやってんだ、
曲がりなりにも音楽家なんだろ、
祈るんだよ、それを外してどうする?
私は音楽の形は祈りの形式に集約されるものだと信じている。私が表したかったのは静けさと、深い沈黙であり、それらが生き生きと音符にまさって呼吸することを望んだ。(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』1971年) |
で、究極の祈りの対象はひとつしかないのは知ってるだろうな? |
――Kさんの友人の文化人類学者が、日本文化に特有のかたちとして「中心の空洞」ということをいうよね? たとえば戦前の国家権力を洗い出してゆくと、結局、中心の天皇の場所が空洞になっていて、責任の究極の取り手がない。あるいはやはり天皇家と関わるけれど、東京という大都市の中心は皇居で、そこが緑の空洞になっている。ギー兄さんの、なかになにもないかも知れない繭というのも、「中心の空洞」ということで、いかにも日本人的な信仰のかたちなんだろうか? ――「中心の空洞」ということを考えるとして、それが本当に日本人固有なものかねえ。量子力学にしてからがその直喩に立っているんじゃないの? それならばヨーロッパにあり、アメリカにあり、またアジアの人間も共有する、というもので…… |
ともかく私は繭の「中心の空洞」に集中するとして、もっと通りの良い言葉でいえば、それに向けて祈るとして、いつまでもそこからなにも現れないままで、決して不都合だとは考えないと思うよ。「中心の空洞」に向けて祈りを集中しているとして、人間の側の営為として、いまの私にはどんな不協和音も兆してこないよ。 ――なぜ、「中心の空洞」に向けて祈るんだろう? とあきらかに今度はゲームのようにでなく、ザッカリー・K・高安は尋ねた。 ――なぜ、「中心の空洞」に向けて祈らずにいられるんだろう? ……まあ、そのように感じて、祈る者や祈らぬ者や、お互いをキョロキョロ見交わすのが、私たちの集会の出発点かも知れないなあ。 ――僕はギー兄さんの考え方を、無神論のカテゴリーに、あるいは人間的なニヒリズムに、つまり若いころのKさんみたいな、実存主義者のものに分類するけれども、とザッカリー・K・高安はいった。しかし、そういう考え方の連中がなお教会を建てるということに、僕は関心を持たないではいられないね。(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部第二章「中心の空洞」) |
中心の空洞に向けての祈りしかないんだ
「中心の空洞」ーー、老婆心ながら念押ししとくよ
享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにある[configuration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord. ](Lacan, S16, 12 Mars 1969) |
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享楽は現実界にある。現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel. …Jouissance du réel](Lacan, S23, 10 Février 1976) |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger] (Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974) |
女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.] (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年) |
仮にエドゥアルト・マイヤーの神だって祈りの対象だよ、ーー《マイヤー(1906)は、神の原初の性格像を再構築した。神は不気味なもので、血に飢えた悪魔であり、昼夜、歩き回る[Meyer das ursprüngliche Charakterbild des Gottes rekonstruieren: Er ist ein unheimlicher, blutgieriger Dämon, der bei Nacht umgeht und das Tageslicht scheut.]》(フロイト『モーセと一神教』2.4、1939年) |
享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
どの穴も女陰の開口部の象徴だった[jedes Loch war ihm Symbol der weiblichen Geschlechtsöffnung ](フロイト『無意識について』第7章、1915年) |
お前さん、宗教家でもあるんだろ
なにやってんだ、祈りもせずに
かくの如く私は聞いた。ある時、ブッダは一切如来の身語心の心髄である金剛妃たちの女陰に住しておられた[evaṃ mayā śrutam / ekasmin samaye bhagavān sarvatathāgatakāyavākcittahṛdayavajrayoṣidbhageṣu vijahāra ](『秘密集会タントラ』Guhyasamāja tantra) |
神はヴァギナのなかにいる。ーーラーマクリシュナ “God is in the Vagina” – Sri Ramakrishna |
➡︎神のシニフィアンS(Ⱥ)